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テーマ:城跡めぐり(1258)
カテゴリ:歴史同好会(城・館・砦)
【訪問日:2024年(令和6年)10月11日(金)】 ※ 公式HPより 天慶二年(九三九)、平将門が朝廷に対して乱を起こします(承平の乱)。その際に、将門の参謀格であった興世王が勝浦に砦を築き、これがのちの勝浦城のもととなったとも言われます。鎌倉時代になるとこの砦は上総広常の支城となります。源頼朝が関東の経営に乗り出すと広常も頼朝に従います。しかし、謀反の疑いをかけられ謀殺され、上総は千葉氏や三浦氏に分配されました。 また一説には、大永元年(一五二一)に真理谷武田氏によって築かれたとも言われます。現在見ることができない勝浦城を古地図によると、八幡岬から鳴海神社、その下の恵比寿地区まで、南北に長細い形状となっています。天文十一年(一五四二)には、勝浦正木氏の初代正木時忠が勝浦城に入城。二年後の天文十三年に、真理谷武田氏は滅亡します。その後、二代時通、三代頼忠の居城となり勝浦正木氏の統治が続きますが、天正十八年(一五九〇)、北条氏が豊臣秀吉によって滅亡すると、勝浦城も本多忠勝や植村泰忠らの軍勢に攻められ落城しました。この時、頼忠の息女お万は炎上する城から母と弟を連れ八幡岬の断崖に白い布を垂らし海に下り、小舟で館山方面に逃れました。現在も八幡岬には「お万布ざらし」の伝承を伝える「お万の像」が建てられています。逃れる際には当社の側を通りぬけていったことでしょう。御祭神の加護篤く、お万は無事逃れのちに家康の側室となり、紀伊徳川家藩祖・頼宣、水戸徳川家藩祖・頼房の二子を産みました。 八幡岬の先端三方海に臨んだ断崖に勝浦城址があります。築城時期については様々な伝承がありますが、城郭の形態をなしたのは、正木時忠からではないかと考えられます。それ以前は真里谷武田氏の出城か砦であったと考えられます。正木時忠がいつ侵攻してきたのかは不明ですがおおよそ天文8年(1539年)から天文10年(1541年)にかけてではないかと考えられています。 正木氏は時忠から時通・頼忠と続きますがが天正18年(1590年)小田原落城により関東が徳川家康の支配下に置かれるとほどなく植村泰忠に接収されることになります。 現在、郭内、木戸脇、内宿、二のくら(廓)、三のくらなどの地名は残っていますが廓跡も八幡岬公園として生まれ変わり、お万の方の銅像が青い太平洋を見つめています。 ※ 勝浦城址 〈勝浦城址(千葉県勝浦市浜勝浦字郭内)〉 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024年10月14日 11時02分13秒
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