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服部宗家 本家 服部半蔵が有名になり半蔵家が服部宗家のように取り沙汰されているが伊賀服部宗家はこの 伊賀市高畠の服部家でその証に嘉暦二年(1327)に六波羅探題から黒田荘の悪党鎮圧を命じられたのも また貞和二年(1346)将軍足利尊氏が夢窓疎石の勧めにより全国に安国寺利生塔の建立もどちらも 伊賀高畠村の服部持法が命じられています。 つまり幕府からすると服部持法が伊賀を代表する本家という認識があったと思われます。 服部半蔵の祖は服部家長という伊賀荒木村に在していました。 ここでまた分かり難くしているのは服部家長が伊賀一ノ宮、敢国神社の管理し、くろんど祭りなどを遺しています。 というのも敢国神社は阿閉氏の氏神としていたが阿閉氏一族は壬申の乱(672年)で大海人皇子(天武天皇)に味方し奈良の都までついて行き官吏になり出世します。 続日本紀によると708年正月に正六位上の阿閇朝臣大神は従五位下を授けられています それで敢国神社の管理は服部家長の家が 先祖代々が任されていたようです。 しかし服部家長は源平合戦で平家に味方し(伊賀は中立又は源氏に味方した)1185年壇之浦まで行っているが荒木に帰れず伊賀東西部の千賀地に隠れ住んだ。服部半蔵の父、服部半三保長は1500年代中頃京に出て足利に仕えたが、すぐ見切りを付け徳川家康の祖父、松平清康に仕えた。荒木村で五百年、千賀地で四百年の歴がある。 伊賀越え後に配下となった伊賀同心は徳川家臣団の一部門であり、服部家の家臣ではない。正成はあくまで指揮官の一人であり「伊賀国の忍者の頭領」ではないとし、千賀地服部はそもそも分家であるとして良しとしなかった。 高畠服部家の氏神神社は伊賀二之宮服部の小宮(おみや)神社です。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2024年08月18日 13時30分55秒
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