西蓮寺 服部土芳墓所 三塔供養塔 藤堂元甫墓所
服部土芳墓所服部土芳は芭蕉の弟子で伊賀上野本町通りの豪商、木津三郎兵衛保好の弟孫三郎保向の三男に生まれ、三歳で父を失い後に、伊賀藤堂藩、槍指南役、服部半左ェ門の嗣子(しし、あととり)として服部半左ェ門保英と名乗り藤堂藩士となった。インターネット上には藤堂藩士の家にの生まれたとしていますが地元の説は豪商の家に生まれた説が有力ですがもしかしたら父が藩士になっていたのかもしれません。しかし29歳の貞享2年(1685年)、水口宿(滋賀県)で旅の途中の芭蕉と20年ぶりに再会し、翌年、藩を致仕して俳諧に専念する。貞享5年(1688年)、32歳、庵を開き、訪れた芭蕉の「みのむしの音を聞にこよ草の庵」の句から蓑虫庵と呼ばれる。元禄2年(1689年)、号を土芳と改める。芭蕉晩年の俳論を整理した『三冊子』などの著書を残しました。伊賀での芭蕉に関する事柄が土芳によって遺されて後の研究に役立っています明暦3年(1657年) - 享保15年1月18日(1730年3月6日))本名は保英、通称は半左衛門三塔供養塔中央に真盛上人の五輪塔、右に後土御門天皇、左に後土御門天皇の第二皇子、尊盛親王の五輪塔天皇と親王はともに真盛上人に帰依(きえ、神・仏などすぐれた者に服従し、すがること。)した皇族です。真盛上人は生前に後土御門天皇より、「真盛 上人」の号を授けられていた。藤堂元甫(げんぽ、もととし)墓所1683-1762 伊賀上野城代をつとめる。伊勢(津志)・伊賀(伊賀志)・志摩(久居志)3国の地誌「三国地志」の編集にあたるが,宝暦12年9月6日伊賀志未完のまま死去。80歳。嗣子藤堂元福がこれをひきつぎ,13年完成させた。松尾芭蕉(ばしょう)の資料をあつめ,再形庵文庫をつくった。初名は元英。西蓮寺過去帳には、後の慶安元年(1648)には春日社を寛延三年(1750)には楼鐘堂が藤堂采女の曾孫の藤堂元甫、玄孫の元社によって建立された。元甫を曾孫、釆女家四代、元杜を玄孫、とあるので元甫を元杜の父として三代元稠(もとしげ)と元甫が同一人物とする説がありますが享年が35年合いません。元稠の死亡、18年後に元甫が家老職に着いています。それに藤堂釆女家墓所には三代高稠としていて伊賀藤堂城代家老の歴代の名前に付いている元がありません。伊賀市史の資料の上野城代は藤堂高虎の母違いの弟、高清から藤堂釆女家の初代元則を始めとして二代元住、三代高稠が1684-1727年にところが1731年-1742年には藤堂玄蕃良成が家老職に着いている。これは高稠の息子の元杜がまだ幼少だったので一代に限り玄蕃家が着いたものでしょう。1742-1745年には釆女家四代、元杜が着くが3年で亡くなりそして1745-1757年まで元甫が着いているこのことから元甫は三代高稠の弟で甥の元杜が亡くなり釆女家の当主は継がず家老職をだけを継いだものと思われます。1757-1781年には元甫の息子の元福が着いている。釆女家歴代当主 服部元則(もとのり服部保長の曾孫)享年 万治三年(1661) 家老在職期間(1630-1651)服部元住 (もとずみ)享年 貞享四年(1687) 家老在職期間(1651-1687)藤堂元稠 (もとしげ)享年 享保二十年(1727)家老在職期間(1687-1727)藤堂元杜 (もともり)享年 延享二年(1745) 家老在職期間(1742-1745)藤堂元福 (もとふく)享年 天明元年(1781 ) 家老職在職期間(1757-1781)藤堂元長 (もとなが)享年 寛政六年(1795) 家老在職期間(1781-1794)藤堂元孝 (もとたか)享年 文政四年(1821) 家老在職期間(1807-1821)藤堂元晋 (もとつぐ)享年 明治八年(1875) 家老在職期間(1840-1865)藤堂元施 (もとひろ)享年 明治十一年(1878) 家老在職期間(1865-1871)西蓮寺南側の山 比自山の朝屋丸北の長田丸は百田藤兵衛が南の朝屋丸を福喜多将監が築いたもの。丸といっても城ではなく砦のようなもので堀切や土塁を造っている。天正伊賀の乱では比自山に篭った伊賀勢が抵抗し織田勢は二千五百人の死傷者を出した。