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かつて、野球盤というゲームがあった。
野球場の形をした板で、家にいながらにして野球の試合ができるというスグレモノ。 ふと、この野球盤を見かけて、「懐かしいなぁ」と思ったのです。 バネではじかれたボールがびゅーっと出てきて、それをバットで打ち返す。ヒットとかアウトとか、あるいはホームランとか書かれたところにボールが入ったら、それに従ってランナーを進める。 ぼくくらいの年代なら、一度はやったことのあるポピュラーなものだと思います。 で、この野球盤に「消える魔球」という機能がついていました。 バットに向かって転がってくるボールを打とうと、 「おりゃ!」 とバットを振ると、その目前で地面がべこっと開いて、ボールが下に消えてしまう。 当然地面に潜ったボールなんか打てるわけもなく、空振り三振。 ボールが地下に消えてしまうなんてのは、どう考えても無茶なシステムで、実際にそんなことがあったら「ふざけんな!」と抗議がおこると思うんだが、この消える魔球というものについて我々はたいして疑問に思うこともなく受け入れて、 「消える魔球は一試合で三回までね」とか、 「じゃあハンデに消える魔球使っていいよ」とか、 そんなルールを各自つくってゲームしていました。 ぼくが懐かしいと思ったのは、野球盤そのものではありません。 消える魔球についてでもない。 このルールのことを、懐かしいと思ったのです。 むかしのおもちゃというものは細かいルールや設定なんてものはなくて、遊ぶ側がさまざまに補足して遊んでいました。 実際、消える魔球があるからといって、ぜんぶ消える魔球にしてたらゲームにならないのです。 お互いに譲り合ったり、相手を思って、「ここはこうしておこう」「これはやっちゃだめだ」と自分で加減をして、遊びを成立させていた。 こういった、遊びに対する姿勢を、「懐かしい」と思ったのです。 いまは、ゲームといえばプレステやらDSやらになると思うのですが、そこにあるのは細かく設定されたストーリーと、次々と襲ってくる敵や謎。 プレイヤーは、用意されたものを順番にこなすだけで、自分から何かするということはない。 与えられたものを、与えられたようにこなすだけ。 遊びというものは、もっと自由で主体的なものだったのではないでしょうか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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