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大学では哲学を学んだ。
アメリカのプラグマティズムと、中国の陽明学というのを学んだ。ともに実践をむねとする哲学で、机上の考えよりも実際の行動を重んじる考え方だ。 プラグマティズムの創始者チャールズ・サンダース・パースの言葉によると、 「ある思想の意味をはっきりつかむには、その思想が真であるとすればどんな実際的結果が必然的に起こるか、 と考えてみればよい」 プラグマティズムの根底にあるのはこういった考え方だ。イギリスの経験主義、アメリカの実証主義を発展させた考えとして、プラグマティズムは存在する。 言葉は、口からセリフとして出ただけで完成するものではなく、その結果どんな行動に結びつくか、どんな影響を及ぼすか、そこまでを含んだものがその言葉の意味であるとする考えだ。 またアレグザンダー・ベインズにはこんな言葉もある。 「信念とは、ある人がそれにのっとって行動する用意のある考えである」 つまり、実現不可能な理想をいくら述べても、それは現実の生活とは無縁のものであり、本当にひとが生きる上での信念とはならない。言葉は実現性のある予定であるべきで、またその言葉が実際に行動されたときにはじめて意味が生まれるとする考えである。 ぼくは何かというと「具体的にはどういうこと?」とか言って周囲から煙たがられているけれど、それはつまりこういうことだ。ぼくにとっては「おれはぜったいに逃げない」とか「日本一になる」とかいった実効性のう すい言葉は馴染みのないもので、不特定な状況や対象しか見ない言葉に意味があるのかと思ってしまう。 生活の中のどの状況で、誰に対して、どのように行動するのかという裏付けのない言葉は言うだけ自由で、言うだけ勝手だ。しかしその言葉が実現されることがないのだったら、何の意味があるだろう。ましてや、その言葉が実現する手段のないことだったら、何の価値があるだろう。さらには、その言葉が言っている本人も信じていないようなうわべだけのものだったら、何の意義があるだろう。 綺麗事であってもいい。ただしぼくは綺麗事を信じている。自分が信じることのできることなら、ぼくは言うことができる。信じてもいないのなら、綺麗事ですら言べきではない。 「今週は二次方程式の教え方を研究して、生徒に伝えるべきことを整理する」 これくらいなら実感が持てるが、 「いつか必ず日本一の塾講師になる」 この目標では漠然としすぎていて、努力目標としてふさわしくない。第一、何をどう努力していいのかすらわからない。 受験をひかえた生徒たちも、目標を立てるときは具体的なものでなくてはならない。 「とにかくがんばる」「かならず勝つ」「絶対に諦めない」そんな曖昧なものではなく、具体的なものにするべきだ。ならなら、抽象的な目標では、その目標を達成したかどうかを見ることができないので、「おれはがんばった」とか自己満足に終わる可能性が高いからだ。 「一日十個単語を覚える」「今週中に江戸時代の年表を覚える」「この問題をやる」「三ページ進む」といった、具体的な行動に密着した目標を設定して、それを実現することに精力を傾けるべきだ。 目標として設定することの条件を具体的にいうと、 1.終えるまでの期日が定まっている 2.するべきことが現実に手元に存在する 3.するべきことが自分に実行可能なことである 4.それが実行できたかどうか、客観的に判断することができる と、これくらいしっかりしていれば、目標として機能するだろうと思う。 言葉は実現されるためにあって、それにのっとって行動したときはじめて意味が生まれる。 ぼくはそう思っている。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2006/07/12 03:41:45 PM
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