テーマ:マラソンに挑戦(5678)
カテゴリ:東日本大震災
≪ 壊滅した街 ≫
前方に「あんどん松」が見える。あれは閖上(ゆりあげ)のシンボルで、江戸時代に遠州(現在の静岡県浜松付近)から種を取り寄せて植えた防風林。私は昨年「浜名湖一周ウルトラ」(100km)に出たが、スタート地点に近い旧東海道舞阪宿にも立派な松並木が残されていた。遠州も空っ風で有名だが、あれよりもずっと高く、しかも強風のため幹や枝が大きく曲がっている。 名取川の堤防を下って閖上(ゆりあげ)の市街地に入る。土手の松越しに見える朝日。だが、この右手一帯は、あの東日本大震災の時に、大きな被害が出たところなのだ。私が自転車でここを訪れたのは、震災の1カ月後くらいだったが、車が泥田状態の土地に突き刺さっていたり、瓦礫が地面を覆っていた。その間を縫うようにして、自衛隊員が必死に捜索活動を行っていた。彼らは行方不明の方々を探していたのだ。 閖上大橋の脇から海岸へ向かう。この橋のたもとには、当時警視庁のパトカーが停止していて、車の通行は禁止されていた。橋には震災によるひびが入っていたためだ。橋の向こう側、つまり海寄りの土地が閖上の市街地だが、ここは壊滅的な被害が起きたところ。残された家は地震と津波で破壊されており、大部分は土台しか残されていないのだ。 破壊され、住む人のいなくなった家が朝日を受けて突っ立っている。 破壊された家に張られた転居通知(上)と、無断侵入を禁止する張り紙(下)。震災後、無人となった家には泥棒が入ることが多かったようだ。それは他県から来たのだろうし、あるいは外国人だったのかも知れない。中には死骸の指を切って、指輪を奪った極悪人もいたようだ。犯罪を取り締まり、平和を守るために全国のパトカーが被災地に派遣された。私が当時見た警視庁のパトカーも、橋の通行を取り締まるだけでなく、犯罪者の横行を警戒していたのだ。 平屋が津波によって破壊されたのは当然だが、2階まで津波の爪痕が残されている。この付近は名取川の堤防を越えてではなく、前方の太平洋から津波が襲って来たのだ。 土台しか残されていない敷地の角に、チューリップが植えられたバケツがあった。 荒れ果てた被災地の所々に、鎮魂の姿が見える。これは仮設の線香台だろう。 瓦礫の傍らに立っている枯れた供花が哀れだ。 こちらはまだ生気のある供花。きっとつい最近、かつての住人が自宅の跡を訪れたのだろう。妻もこれらの様子に、いたく感じ入ったのか、静かに手を合わせていた。 廃墟跡に集められた缶類も、今では錆ついたまま。 朝日の中に横たわる瓦礫。今でこそ少なくなった瓦礫だが、震災直後はきっと足の踏み場もない状態だったのだろう。 草ぼうぼうの更地の向こうにお寺が見える。あのお寺の壁も、ベニヤ板が釘で打ちつけられている。以前訪れた時は、墓石が全てなぎ倒されたままだった。地下の祖先も津波を被り、彼らを祀るべき寺も破壊されて無人のままだ。ここ太平洋に面した名取市閖上(ゆりあげ)地区は、今や死の街。あの大震災で753名の尊い命が失われた。私の従兄もその中の1人だ。亨年80歳だった。 無人のお寺と無限に広がる荒れ地を背景に、2体の地蔵が海に向かっている。きっとこの地蔵は海で死んだ漁民を供養するために建てられたのだろう。だがその海が、あの日は閖上の街並みとたくさんの住人達を襲ったのだ。ここ閖上の浜は、江戸時代から仙台の街へ新鮮な魚を補給して来た「いさば」(漁場)だった。海で栄えたこの街が、荒れ狂う海のために滅んでしまった。 前方に日和山が見え出す。標高は10mにも満たない人工の丘だ。昔はあの頂上から海と空を眺め、翌日の天候を予想した。漁で生きる民の必要不可欠な丘。その頂上にあった湊神社の建て物も津波に流された。その潮水に浸かりながら奇跡的に生き延びた松が、丘の上に見える。きっとあの松は、あの日大津波に飲み込まれて行く街の様子と住人の苦しみとを、じっと見続けていたのだと思う。<続く> お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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