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マックス爺のエッセイ風日記

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2014.06.23
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カテゴリ:旅、温泉
 5月31日。私は多くの走友と「第10回みちのくラン」に参加した。仙台市内を15km走り、電車で塩竃に移動して塩竃神社に参拝し、その後遊覧船に乗って塩竃から松島へ渡った。ホテルの温泉に入った私は、懇親会に出る仲間と別れ、一人帰途に着いた。体調が良くなかったからだ。駅に向かう途中に寄ったのは、ある小島。名前を雄島と言う。


雄島位置図.jpg

 これは雄島の位置。松島の街並みから南へ500mほど下った海岸にある。周囲はわずか400mほどの細長い小島だ。


          信仰1.jpg

 私がこの島を観たかった理由の一つは、あの「東日本大震災」で受けた被害が、その後どうなったのかを確かめるためだった。理由の二つ目は、駅に行く途中にこの島があるため。実はこの小島は聖域でもあるのだ。赤い橋の先の島が雄島。この橋が地震で壊れたと聞いていたのだが、あれから3年2カ月が経ち、橋は架け直されていた。


信仰2.jpg

 橋の名は渡月橋。月に渡る橋と書くが、ここが別に月見の名所だった訳ではない。橋の向こうに石窟が見える。そう。この島はかつて瑞巌寺に所属する信仰の島だったのだ。


          信仰3.jpg

 島に渡って時計回りに左へ行こうとすると行き止まり。ロープが張ってあって、その先へは進めない。どうやら地震で周回道路が崩壊したようだ。仕方なく岩窟の様子をデジカメで撮り、道沿いに右側へ廻った。


信仰4.jpg

 崩れた石窟が道の直ぐ傍にある。


          信仰5.jpg

 かつては108の石窟が、この小さな島にあったようだ。108は人間の煩悩の数。大晦日の夜に撞く「除夜の鐘」の数と一緒だ。その一つ一つに修行僧が籠り、朝な夕なに経文を唱えていたのだろう。だがそれから長い年月が経ち、現在では50ほどしか石窟は残っていないようだ。


信仰6.jpg

 これは重要文化財の「頼賢の碑」を守るための鞘堂(さやどう)。頼賢は鎌倉時代の高僧で建久7年(1196年)京都に生まれ、文永10年(1274年)78歳で没した。晩年は鎌倉で過ごしたようだ。その彼が22年間に亘り、この島で修行したようだ。


          信仰8石碑説明.jpg

 鞘堂の傍に、この石碑の謂れについて書かれた説明板があった。


信仰7.jpg

 この小島の至る所に古い石碑や句碑、石仏などが建てられている。平安時代に創建された瑞巌寺は、元々真言宗の寺で、境内にはたくさんの石窟が残っている。それが鎌倉時代の途中から禅寺になった。宗派は臨済宗である。


               芭蕉一行.jpg

 この島へも芭蕉と弟子の曽良は訪れている。元禄2年(1689年)の春に江戸を発った2人は、旧暦5月9日(新暦6月27日)の早朝に塩竃神社を参拝し、その後小舟に乗って松島を訪れた。当時の松島は民家が80軒ほどの寒村だが、30もの寺があったようだ。陸路が整備されてなかったため、海路によらざるを得なかった訳だ。


信仰9.jpg

 芭蕉と曽良の2人も、恐らくはこのような苔むした石塔などを観たのだろう。


          信仰10.jpg

 そもそも何故芭蕉は奥深い陸奥へ旅しようと考えたのだろう。それは陸奥が古来より「歌枕」の宝庫だったことが理由の一つだと思う。そしてその歌枕を訪ねた先人が漂浪の歌人西行だった。奥州藤原氏が頼朝に攻め滅ばされる前と後の2回、西行は陸奥を訪れている。その西行の足取りを、芭蕉は辿ろうとしたようだ。


信仰11.jpg

 西行は宮廷に仕える「北面の武士」であったが、道ならぬ恋に溺れて逐電し、やがて僧となって歌を詠みながら全国を行脚した。芭蕉も元は武士。恐らくは「滅び」の美学が身についていたことだろう。ここ松島へはかつて西行も訪ねている。だから芭蕉も松島を訪ねるのが、「奥の細道」の一番の目的であった。


          信仰12お堂.jpg 

 さて、この島に「新左衛門稲荷」の伝説が残されている。この地のキツネが正一位の称号を受けるために都に旅する。ところが帰路暴風にあって遭難し、石巻に向かう千石船に助けられてようやくこの島に戻ったと言うのである。キツネの話はともかく、江戸と石巻を行き来する千石船が往来していたことは事実。仙台藩では干拓事業によって米を増産し、それを江戸へ運んで巨利を得ていた。北上川の河口に位置する石巻は、藩内の米の一大集散地だったのだ。


信仰13句碑2つ.jpg     

 左が芭蕉の句碑で、右が曽良の句碑である。

    朝よさを 誰まつしまぞ 方心    芭蕉

    松島や 鶴に身をかれ ほととぎす  曽良


 朝な夕なに松島への想いが浮かぶ。それはきっと誰か私を思う人がこの島にいて、私を待っているからだろう。松島に対する芭蕉の強い想いが伝わる一句だ。「ああ松島や」は後年作られた伝説に過ぎない。当時の芭蕉はまだ評価が低く、恐らく瑞巌寺の住職も会ってくれなかっただろうと物の本に記されている。

 これに対して曽良の句は、しきりに鳴いているホトトギスよ、ここは松島。松に合うのは鶴なのだよ。だからお前も鶴に頼んでその身を借りて来たらどうなのと詠う。


          信仰8アヤメ.jpg 

 不思議なことに、私はこの島でアヤメを観た。誰が植えたのか、それとも野生のものか。水分が乏しく、しかも潮風の厳しい小島でアヤメと出会うとはまさに奇跡。実は芭蕉が仙台から松島へと旅立つ朝、陸奥国分寺付近でアヤメを詠っているのだ。


    あやめ草 足に結(むすば)ん 草鞋の緒

 旧暦5月7日、塩竃、松島へ向かう主従に、仙台の俳人ははなむけに海苔1包みと干し飯、それに紺の染め緒(そめお)がついた草鞋(わらじ)を手渡した。芭蕉はとても喜び、草鞋の鼻緒(はなお)に菖蒲を飾った。菖蒲は勝負や尚武につながり、縁起が良いと考えたのではないだろうか。そのアヤメが彼らが訪れた雄島に咲いていたのだ。これは偶然なのか、それとも奇跡と言うべきだろうか。<続く>





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Last updated  2014.06.23 08:21:11
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