カテゴリ:旅、温泉
「奥の細道」の旅で芭蕉と曽良は、塩竃から小舟で松島へ渡った。当時は陸路が整備されておらず、海路の方が一般的だったのだ。松島へ着いた2人は、雄島へも訪れている。ここは松島海岸からほど近い、周囲400mほどの小島で、平安末期から修行僧が岩窟に籠って終日経を唱えていた聖地。つまり信仰の島だったのだ。その島を5月31日、「みちのくラン」の帰りに私も訪れて見た。多分これで3度目のはずだ。 雄島の名は、ここが高僧の修行の場であり、女人禁制だったことに拠る。小さな島の到る所に苔むした石仏や石塔があり、当時の面影が残されている。 この島はかつて瑞巌寺に所属していた。同寺は平安時代の創建で、鎌倉時代の途中に真言宗から臨済宗に変わっている。島には108の岩窟があり、1つ1つの岩窟に修行僧が起居していたのだろう。 恐らく僧達の食べ物は、瑞巌寺の庫裏から運ばれたのではないか。それに排泄物の処理や衣服の洗濯などを世話する人もいたと思う。寝具などはあったのだろうか。そして寒風吹きすさぶ冬期は、どんな風に過ごしていたのだろう。 今は無人の島。僧達が読経に明け暮れていた岩窟には、供養のため石仏や石塔が安置されている。 中には度重なる地震で落ちたのか、別の頭部が据えられた石仏もあった。 奥の石塔は、一見宝筐印塔のようにも見える。恐らくは後世の人が供えたのだろう。 海岸からわずか20mほどしか離れていないこの島は、まるで別世界。 100人を越える僧達がこの岩窟で来る日も来る日も経を唱え、己が身の成仏と世の泰平を祈ったのだろう。 今、この島を訪れる人はさほど多くない。まして古の僧の修行にまで思いを馳せる人は。この日も若い男女が石に座って何やら話し込んでいた。 島は砂岩や凝灰岩で出来ている。そのため岩窟も彫り易かったのだろうが、長い年月のうちに風化が進んで行く。 変わり行く島の様子を無言で眺める石仏。 岩を刻んだこの階段を、果たして何人の僧が行き来したのだろう。 周回道路の最奥部に、ぽっかり開いた空間がある。そこに穿たれた石窟群。 ここは見仏堂跡。見仏上人は法力によって自由に空間を移動出来たと伝えられる高僧で、長治元年(1104年)に伯耆国(鳥取県)から松島へやって来た。奥州藤原氏初代の清衡と同時代の人だ。 上人は12年もの間この岩窟に籠って、日夜六万部に及ぶ法華経を唱えた由。その高徳を讃えて鳥羽天皇が本尊一体と松の苗千本を彼に授けた。そのため「御島」とも呼ばれたそうだ。 それから約500年後に訪れた芭蕉と曽良は、この光景を観てどう感じたのだろう。多分江戸初期には既に修行僧は居らず、島も荒れ果てていたのではないだろうか。 洞窟の奥の細道は本来渡月橋に繋がって島を一周しているのだが、地震に拠る崩壊のためその先へ進むことは出来なかった。そしてちょうどその時デジカメのバッテリーが切れ、これが最後の一枚になってしまった。<完> お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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