カテゴリ:考古学・日本古代史
超大型台風8号が九州へ上陸しようとしています。これから皆様のお近くでも、風雨が強まることでしょう。どうぞ十分に注意してお過ごしくださいね~!!
さて、今日も東北歴史博物館(宮城県多賀城市)で開催された特別展、『日本発掘』の展示物を紹介しますね。それらは日本でも有数の遺跡から出土した立派なものばかりで、普段はこんな風に一堂に会して観ることはとても無理なのです。考古学ファンにとってはまさに垂涎の的。幸いにも撮影が許可されていたため、こんな風に紹介することが出来ました。では、早速ご紹介しますね~!! 佐賀県吉野ヶ里遺跡出土の甕棺(かめかん)です。 弥生中期(2千年前) 吉野ヶ里遺跡は我が国を代表する弥生時代の遺跡で、私も23年前に訪ねたことがあります。その頃はまだ展示スペースなどが十分に整備されていませんでしたが、それでも大変重要な出土品が多いことに驚いたものです。ひょっとしてここが卑弥呼がいた「邪馬台国」と考えられたのも無理はありません。写真の甕棺は2つの大きな甕を合わせて、その中に遺体を安置する棺として用いています。 佐賀県吉野ヶ里遺跡出土甕棺内部の写真 同上 これは甕棺の内部に葬られた遺体です。良く見ると頭部がありません。この時代は稲作が始まり、富の集中が起こり、それを束ねる権力者が出現して小さな国家(クニ)が誕生しています。そのようなことを考えると、被葬者はクニ同士の戦いで首を切られた戦士と考えるのが普通でしょうね。「魏志倭人伝」の世界を彷彿とさせる写真です。 吉野ヶ里遺跡出土の筒型器台 同上 これは上部に器を載せる台です。器を直接床に置かず、このような器台に載せたと言うことは、よほど重要な儀式、特に宗教儀式に用いたと考えても差し支えないでしょうね。まさに祭政一致のこの時期を、思い起こさせる一品です。 吉野ヶ里遺跡出土の把頭飾 同上 小さくて良く分かりませんが、これは青銅製の剣の把手(取っ手)部分の飾りです。つまり手で持つ部分です。権力者の出現には武器が付きもの。原料である青銅はおそらく中国本土か朝鮮半島由来のものでしょう。武器は戦いで使うもの。その結果首を討たれた戦士もいれば、このように剣先のない取っ手だけが残った武器もあったのでしょうね。 吉野ヶ里遺跡出土の貝輪 同上 これは貝殻をスライスして作った貝輪です。腕などに装飾としてはめました。原料はイモガイです。沖縄などの南の島でしか採れません。この時代以降に日本列島で装飾品として使われたスイジガイ(水字貝)、ゴホウラガイ、タカラガイ(宝貝)などは全て南島から届いたものです。既にこの時代から「物流」があったことが分かります。卑弥呼の腕にも、このような貝輪がはめられていたのでしょうか。 茨城県常陸太田市泉坂下遺跡出土人面つき壺型土器 弥生中期(2千年前) いわゆる「弥生式土器」ですが、珍しいことに壺の上部に人の顔がついています。 これは上の写真を部分的に拡大したものです。口の周囲と目の周囲にギザギザが刻み込まれています。これは刺青(いれずみ)を表現したものと考えられています。「魏志倭人伝」にも、当時の倭人(日本人)が顔などに刺青をして水没(潜水)して魚を獲っていたいたことが記されています。 茨城県常陸太田市泉坂下遺跡出土人面つき壺型土器 同上 これも同じ遺跡から出土した人面がついた土器です。これをどんな風に用いたのでしょうね。私には呪術性が高いように思えるので、宗教的な儀式に使ったのではと考えているのですが。 これも上の写真を拡大したものです。口と目の周囲に刺青と思われる線刻があります。これが当時の風習だったのでしょうね。実は沖縄にも近世まで刺青の風習が残っていました。潜水漁法は今でも沖縄で行われていますが、顔などの刺青はその際に魚を鎮めるための呪術だったと思われます。常陸太田市は少し内陸部にあるので、多分海の漁とは関係ないはずですが。 和歌山県日高町荊木遺跡出土銅鐸 弥生中期(2千年前) この銅鐸には「六区袈裟襷紋」が施されています。6つに区切ったスペースの中に、袈裟(けさ)のような斜めの襷(たすき)が架かっている紋と言う意味です。銅鐸の使用方法はまだ十分明らかになっていませんが、収穫時にこれを鳴らして祝ったとも言われています。つまり楽器として使った訳です。銅鐸の中には、「べろ」のようなものが残っていたものがあり、ちょうど「風鈴」のような使い方だったとも言われています。 徳島市国府町西矢野遺跡出土銅鐸 弥生中期(2千年前) これも和歌山県出土の銅鐸と同じ紋が刻まれています。同遺跡は弥生時代のものですが、周囲には古墳群があると聞いています。また奈良時代には阿波国の国分寺と国分尼寺が置かれています。そうすると少なくても弥生時代から奈良時代まで、この周囲は徳島県でも最先端の文化を保ち続けていた文明の地であったことが分かります。出土品には、遠い祖先の暮らしぶりが分かるものも多いのです。 応神天皇陵出土水鳥型埴輪 古墳時代中期(1600年前) 応神天皇は第14代の天皇で、実在の人物と考えられています。墓陵は大阪府羽曳野市にある前方後円墳です。天皇陵を発掘することはないため、この埴輪がどんな経緯で発見されたのかは不明ですが、恐らくは陵の表面に落ちていたのを拾ったのではないでしょうか。継体天皇陵である今城塚古墳から出土したのは鶏型埴輪で、応神天皇陵からは水鳥型埴輪。古代の天皇の傍には鳥がいたと考えると、微笑ましくなりますね。 奈良県御所市鴨都波1号墳出土三角縁神獣鏡 古墳時代前期(1700年前) 三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)は、中国皇帝が卑弥呼の使者に下したと考えられている重要な鏡で、国内でもかなりの数が発掘されています。だが、中国本土では1枚も見つかってないのが謎です。鏡の断面で、縁が三角形をしており、裏面に神像と神獣が刻まれているのが名前の由来です。最近の学説では国内で鋳造されたのではないかとも考えられており、謎は深まる一方です。 御所市鴨都波1号墳出土勾玉 同上 めのう製の勾玉(まがたま)です。一説によれば勾玉は胎児の形を模したものと言われており、呪術的な要素が濃い装飾品です。巫女(みこ)や尊い身分の女性が身に付けたと考えて間違いないでしょう。琉球王朝時代の最高神職である聞得大君(きこえおおぎみ)も巨大な勾玉を身に付けていたことが知られており、一部は今でも残っています。恐らくは卑弥呼の体もこのような勾玉で飾られていたのでしょうね。 御所市鴨都波1号墳出土紡錘車 同上 これはめのう製の紡錘車(ぼうすいしゃ)です。紡錘車は糸を縒(よ)る際に、真直ぐになるよう整える役目を果たす装置です。貴人が直接使う道具ではありませんが、再び生き返った時暮らしに困らないよう、墓に入れた「ミニの道具」の一つです。私も高校時代に仙台市の遠見塚古墳の周辺で滑石製の紡錘車を拾ったことがありました。ツルツルした見事なものでした。今から50年以上も前のことですが、畑の表面には土器の破片が幾らでも落ちていたのです。<続く> お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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