テーマ:暮らしを楽しむ(387506)
カテゴリ:生活雑記
<雪の朝>
私がまだ子供だった頃、今から60年も前の話だが、静かな冬の夜は汽車の音が遥か離れた駅の方から聞こえたものだ。それはそれは物悲しい夜汽車の音だった。 高校1年の時、父が夜逃げ先の松山で死に、故郷の仙台に帰り一時叔父の家に厄介になっていたことがあった。高校2年からは放課後にアルバイトをした。帰宅は9時ごろ。雪の夜はとても静かだった。誰もいない畑の中の小道を、星を見ながら帰った。朝、目覚めると頭に雪が載っていることがあった。天井板がないため、屋根の隙間から入ったのだ。 元旦には年賀電報の配達をしたこともある。雪の坂道を自転車を押しながら、電報を配ったものだ。それをさほど辛いとも思わなかった。貧乏は若い頃から私の友達でもあった。 20代前半の勤労学生の頃は、バス通りに面した家に下宿していた。冬の朝はシャリシャリと言う音で目覚めた。「あっ、今朝は雪だ」。聞こえたのはチェーンの音。その頃は滑り止め用に、タイヤにチェーンを巻くのが一般的だった。 そんな訳で、北国にいながら私はスキーが下手だ。貧乏であまりスキー場へ行く機会がなかったのだ。私に比べたら妻の方がずっとスキーが上手。独身時代にたった1度だけ、彼女とスキーに行ったことがあった。それも遠い日の思い出になった。 昨年の暮れ、仙台では何度か雪が降った。雪国の方々には申し訳ないが、つい嬉しくなって雪景色を撮りに、近所の公園に出かけた私だった。一昨年の冬、仙台では73年ぶりの大雪になった。それでも降ったのは35cm。小学校の時にもっと降ったような記憶があるが、きっと背が小さいため大雪と感じただけだったのだろう。今は坂道でも、ソリで遊ぶ子供はいないが、私達が子供の頃は自分でソリを作ったものだ。 これがまあ終の栖(ついのすみか)か雪五尺 小林一茶の句である。彼は薄倖の人であった。嫁をもらったのは晩年になってから。その若い嫁も、確か何かが原因で亡くなったはず。彼が住んでいたのは信濃の国(長野県)の片田舎。冬ともなれば雪は五尺(150cm)も積るような村だった。 だが、一茶には次のような優しい句もある。 うまさうな雪がふうはりふうはりと 雪とけて村いっぱいの子どもかな ふうわりふうわりした美味そうな雪。そしてその雪が解けると、家の中から大勢の子供達が外へと飛び出して遊び出す。寒村でのそんな様子が目に浮かんで来る。 幾たびも雪の深さを尋ねけり これは病床にあった正岡子規の句。彼は若くして結核と脊椎カリエスに冒され、床に伏していた。まだ20代後半の時だ。恐らくこの句を作ったのは29歳ごろ。場所は東京のようだ。 障子あけよ上野の雪を一目見ん 同じ頃の句であろう。場所も上の句と同じ家だと思う。障子を開けて雪を見たいと頼んだ相手は、松山から上京して子規の面倒を見ていた妹だと思う。司馬遼太郎の小説を基にしたテレビドラマ「坂の上の雲」の場面を思い出す。妹役を演じたのは菅野美穂だった。 太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ 次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ 三好達治の詩「雪」である。冬の夜、しんしんと雪が降る。太郎の家の屋根も次郎の家の屋根も真っ白な雪。その屋根の下で、こんこんと眠る子供の顔が思い浮かぶ。まるで童話のような詩だ。 私はまだ現役の頃、山形と石川で勤務したことがあった。どちらも日本海側の豪雪地帯で、雪の多さには驚いたものだ。その頃山形では一冬に何人ものお年寄りが亡くなった。屋根の雪下ろし作業で転落しての事故だ。石川では一晩に1mも降った。翌朝はスコップを持ち、それで雪を掘りながら職場へ行った。昔はもっと雪が多く、2階から出入りしていたと土地の老人が話していた。豪雪は今も雪国の人々を苦しめている。 雪景色を楽しむ太平洋側の人々を、彼らはきっと笑っているだろう。いや、それとも案外羨んでいるかも知れない。 我が家の庭の雪も今はすっかり融けている。そして先日まで連日乾燥注意報が出ていた。昨夜のうちに雨が降ったようだ。今狭い畑では、15個ほどの白菜が寒そうに震えている。そして土の中に埋められた大根は、残り7本ほどに減った。<続く> お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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