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<塩竃神社点描(2)>
こちらは塩竃神社の別宮である。ご祭神は塩土老翁神(しおつちおぢのかみ)。海の神、製塩の神で、こちらが塩竃神社が本来祀っていた神様だったのだろう。転じて航海の神、安産の神としてのご利益も高く、獲れた魚を献上する木製の「献魚台」も用意されている。 そしてこちらが拝殿。奈良時代に陸奥国府が仙台市郡山(太白区)から多賀城に移転すると、この神社に新たな使命が加わった。国府鎮護。つまり東北全体の安全を祈る神社としての存在である。 拝殿の入口 向かって右側にあるこちらが左宮。ご祭神は武甕槌神(たけみかづちのかみ)。茨城県の鹿島神宮に祀られている「武の神」で、当時の日本の最前線を守るため遷座して来たのだろう。藤原氏の氏神でもある。国府多賀城とは直線距離で約3kmほど離れている。そして塩釜港は当然国府津(こうづ)としての機能を持つようになった。 そして向かって左側にあるのが右宮。ご祭神は経津主神(ふつぬしのかみ)。千葉県の香取神宮に祀られている同じく「武の神」。武甕槌神と一対となってわざわざ東北まで国家鎮護のため遷座した訳だ。 塩竃神社に奉納された地酒である。門前には今でも造り酒屋が何軒かあり、新酒が出来ると店頭に杉玉を飾り、神社に造酒(みき)を奉納したのだろう。塩竃神社は平泉の奥州藤原氏によって守られ、藤原氏が頼朝に滅ぼされた後は奥州留守職となった留守氏の庇護を受け、留守氏が伊達氏の傘下となった後は仙台藩の伊達氏が代々篤く敬った。伊達氏が正式に参詣する際は、「藤原氏」を名乗ることが神社の古文書に残されている。 随神門の裏手。まさに「青丹よし」の色合いだ。 境内の小社にもそれなりの風格がある。 こちらは古木が龍のように枝を伸ばしている。 塩竃神社は参詣客が多く、境内の木の枝を傷つけないよう「御神籤」を結ぶ場所が別に設けられている。天然記念物の「塩竃桜」もこの境内にあり、神社の神紋として用いられている。 こちらは少し離れた場所にある志波彦神社。本来はここから直線距離で6kmほど離れた仙台市岩切(宮城野区)にあった。岩切は東山道の延長線上にあり、仙台から多賀城に向かう途中にある。中世期、岩切では市が開かれ、江戸時代には「奥の細道」となって芭蕉もそこを通った。明治期、恐らくは道路の拡張などの理由で移転を余儀なくされ、塩竃神社の境内に移ったと思われる。 神門越しに見える志波彦神社の本殿。塩竃神社は延喜式神名帳には載っていない別格の神社だが、志波彦神社は延喜式にある式内社であり、古い歴史を持つ。宮城県内にはこの「志波彦」の他に「志波姫」の地名があり、岩手県には「紫波城」などがある。「しわ」は「諏訪」と関係があると私は考えているのだが、真相はどうなのだろう。 志波彦神社本殿。こちらも大変な数の参拝客で賑わっていた。 志波彦神社の砂場。境内に相撲の土俵がある神社は見たことがあるが、砂場を見たのは初めてだ。さて、この砂場にはどんな意味があるのだろう。実に不思議な空間だ。 塩竃神社の広い境内には池もある。放生会(ほうじょうえ)でも行ったのかも知れない。境内は花見の名所であり、桜の咲く頃は大勢の花見客で賑わう。また、ここからは塩釜港が望める。なお、宝物殿では仙台藩が奉納した刀剣展が開催中だった。 東参道の神門。往路は急な表参道の石段を石段を登って随神門から境内に入り、帰路はこの神門を潜った。 東参道の石段(右側)はとても緩いため楽に登り降り出来る。参道の途中に竹藪があり、石灯籠が立っていた。この日は自宅から23km走り、駅と神社の往復で2kmほど歩いた。昼食を抜いたせいか、その夜体重を計ると2kgほど減っていた。<完> お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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