カテゴリ:旅、温泉
青麻山
文庫本を2冊持って旅に出たが、あまり読む気はしなかった。東北新幹線の座席から、流れ行く景色を見ながら私が読んだのは、座席の前に備え付けられていたPR誌だった。南部鉄器の特集号だ。盛岡を中心とする南部鉄器は、鎌倉時代に起きたもののようだ。一方、水沢を中心とする仙台藩の鉄器は、平安の奥州藤原氏時代が起源とか。山々は紅葉を見せ始めていた。深まり行く東北の秋。果たしてかつての仲間達はどんな顔をして私を迎えてくれるのだろう。 南蔵王 それにしても、良くここまで体調が回復したものだ。一時は死を覚悟し、到底筑波に行くのは無理だと思っていた。それがK病院で診察を受け、強い薬に切り替えてかなり経った頃から、ようやく効果が現れ出した。この夏以降2ヶ月間苦しんだ不整脈の発作が、何とか治まってくれたのだ。生きているのはありがたいこと。こうして旅が出来、かつての悪友達とも再会出来るのだから。 一切経山 福島駅で止まった時、一切経山に白い雪が見えた。冠雪はそれだけで、安達太良山や那須の連山でも見ることはなかった。関東平野は曇って暗い空の下に在った。上野で降りて京浜東北に乗り、秋葉原から「つくばエキスプレス」に乗った。これに乗るのは確か3度目。前の2度は「つくばマラソン」を走った時だ。あれから何年経ったのだろう。足は故障していたが、まだフルマラソンを楽に走ることが出来た。若かった60代も最早遠くに去った。 つくば研究学園都市 1時間足らずで終点のつくば駅に着いた。バスセンターから筑波山行きのバスが出るまで45分ほどあった。その間を利用して、かつて私達家族が住んでいた宿舎を訪ねて見ることにした。筑波を去って31年。もう風景がすっかり変わっている。私が初めてこの地を訪れたのは昭和49年。周囲にはただ荒れ地が広がっていたのだ。それが今では、近代的なビルが林立する都会に変貌した。街路樹の大きさが当時とはまるで違い、すっかり落ち着いた風景だった。 かつての宿舎 あったあった、宿舎があった。この地で生まれた次男を含め、5人の家族がここで10年間過ごしたのだった。子供達にとっては、きっとここが故郷だったのだろう。そして私にとっても、苦しく懐かしいところでもある。何せ30歳から40歳までの働き盛りをここで過ごした。宿舎が出来るまでの間は、東京の三鷹から3時間かけて通勤もした。それも毎日長靴を履いて。何せ新しい職場は泥んこで、始終工事をしていたのだ。 宿舎前の芝生 自転車置き場の屋根は壊れていたが、宿舎の前の芝生はきれいに刈られていた。涙が出るほど懐かしい風景。ここで次男とキャッチボールをし、サッカーボールを蹴る次男と良く遊んだものだ。あの懐かしい日々は、もう永遠に帰っては来ない。我が青春の日々、そしてまだ幼かった3人の子供達の少年時代も。周囲の様子がすっかり変わっている。宿舎前の閉鎖された道路は、土浦方面に直進する広い道路に変わっていた。 学園東大通り まだ時間があったので、周囲をグルリと一周してみた。「土浦学園線」までが遠く感じる。きっと私の脚が衰えたせいだろう。「筑南水道企業団」の建物がなくなって民有地に変わり、角地に歯科医院が建っていた。「学園東大通り」の角を曲がって駅に向かう。歩道橋から見える風景は私がかつてランニングした頃とは違って、もう堂々たる風景に変わっている。あの原野のような貧弱な土地が。私はまるで異邦人のように、それを眺めながら歩いた。 学園中央付近 つくば駅には近道を通った。当時は歩いたこともない遊歩道。広い宿舎群の中の広い公園が、紅葉した木で埋まっている。遠くに「ロケット」が見えた。あれは「筑波科学技術万博」の名残だろう。駅付近の広場でイベントが開かれていた。私達がいた時分は、到底見られなかった風景だ。その頃はスーパーも乏しく、行商で売りに来る魚や野菜を買っていたのだ。そして秋には毎日のように栗を拾ったものだ。それが今は丸きり都会の風景なのだ。 ロケット? バスターミナルでうろうろしていた時、誰かが私に声をかけた。T村さんだった。東京から来るK村さんを待っている由。私はバスで筑波山に行くと彼には伝えていた。新幹線の時間もあり、何時にここへ着くか調べてなかったためだが、思いがけず彼の車に同乗することになった。それにしてもK村さんの到着が遅い。<続く> <ご連絡>今日はブロバイダーの変更予定日ですが、何時に切り替わるか不明です。このため、コメントへの返事や、皆様への訪問がいつ出来るか分かりませんので、予めご了承願いますね~。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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