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マックス爺のエッセイ風日記

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2015.12.02
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カテゴリ:写真
 11月23日月曜日。私は雨の中を歩いた。仙台市博物館と宮城県美術館で開催中の催し物を観るためだったが、その際いくつかの銅像やレリーフに出会った。今日はそれらの作品を紹介したいと思う。


   D3キリ.jpg

 1 「仙台キリシタン殉教碑」深沢守三神父作 大橋のたもとの西公園内に設置。

 藩政時代、大橋の下には水牢があった。元和10年(1624年)キリシタン禁止令によって、9人のキリシタンがここで処刑された。1人はポルトガル人宣教師のカルバリオ神父で、他の8人は日本人。九州や北陸など、いずれも他国の出身者だった。


   D4キリ.jpg

 1)の部分で中央に立つカルバリオ神父。日本式の名は長崎五郎衛門。彼は長く長崎で布教活動を行っていたようだ。この銅像はカトリック教団が、神父らの殉教を偲んで1971年に製作設置したもの。


   D2キリ.jpg

 神父の向かって左に立つのが武士で、右側に立つのが農夫。彼らは殉教者のシンボルとして、このような形をとった。仙台藩において、当初キリシタンに対する弾圧はなかった。支倉常長を遣欧使節として派遣したほどだ。政宗の正室である愛(めご)姫や長女の五郎八(いろは)姫はキリシタンとの説もある。現に五郎八姫の霊廟である天麟院(松島町)の厨子の中には、バラの花と十字架のデザインが施されている。

 規制の緩かった仙台藩へは、キリシタン達が大勢逃げ込んで来たようだ。だが、禁止令が幕府によって出されると、藩も彼らを捕え、処刑せざるを得なかった。こうして約400年前の2月、厳寒の中で9人のキリシタンは広瀬川に沈められたのだ。


   D5魯迅像.jpg

 2 魯迅像 仙台市博物館裏庭

 魯迅は中国の小説家、翻訳家、思想家。(1881~1936)。明治37年(1904年)医者になるため仙台医学専門学校(東北大学医学部の前身)に留学するも、自国民を救うためには文学者になるべきと考え方を変え帰国。中国で西洋の技法で小説を書いた最初の人。代表作に「狂人日記」や「阿Q正伝」がある。仙台滞在中は特に解剖学の藤野教授から手厚い指導を受けた。この恩師の話は、彼の小説にも登場する。

 この銅像は魯迅の故郷である紹興市から生誕120周年を記念して仙台市に贈られ、平成13年(2001年)に現在地に設置された。


    D6林四平像.jpg

 3 林子平レリーフ 仙台市博物館裏庭

 林子平(元文3年1738年~寛政5年1793年)は元仙台藩士。父は幕府の書物奉行を務めた岡村良通。事情により叔父がいた仙台藩に寄留。種々藩に進言したが聞き入れられず、兄の部屋住み(居候)となり全国を巡る。長崎、江戸で学び、「三国通覧図説」や「海国兵談」を自費で出版。これが禁書に当たるとして幕府に発禁処置をとられ、兄宅に蟄居処分となる。

 彼は西洋諸国の脅威、中でもロシアの脅威を恐れ、日本も防備に努めるべしと説いたのだが、幕末の黒船到来より70年近く早く、世間に認められなかったのだ。自ら六無斎と名乗った。「親も無し、妻無し子無し版木無し。金も無ければ死にたくも無し」と嘆いたことによる。また「寛政の三奇人」の一人と呼ばれたが、実態は天才。人よりも時代の先を読む力があった。

 このレリーフは昭和43年(1968年)小笠原諸島が日本へ返還された記念に建てられた。子平の著書に、小笠原諸島が日本人によって発見されたことが記されていたのだ。小笠原は捕鯨基地でアメリカ人が居留していたが、彼らはそのまま日本に帰化している。


   D7政宗像1.jpg

 4 伊達政宗胸像 小室達作 仙台市博物館裏庭

 制作した小室達は宮城県出身の彫刻家で、東京美術学校(東京芸術大学の前身)を首席で卒業した人。(1899~1953)後で出て来る青葉城の「政宗騎馬像」も彼の作品である。


   D8政宗2.jpg

 伊達政宗は仙台藩の藩祖で、独眼竜として名高い。幼少の頃に天然痘に罹り、片目を失った。父輝宗は伊達氏第17代当主。母義姫(保春院)は最上氏の出で、山形を治めた最上義光の妹。正室は三春城主田村清顕の娘愛(めご)姫。


   D9博物郵便1.jpg

 5 三世代 仙台市博物館前庭


   D10博物郵便2.jpg

 5)の部分

 長い間この銅像を観て来たが、あまり関心はなかった。良く観ると、肩からかばんを下げた郵便局員が3人いる。どうやらこれが3世代の家族なのかも知れない。制作者の藤原吉志子(1942~2006)は東京都出身で、東京芸術大学大学院鋳金科を修了した彫刻家のようだ。


   D11博物郵便3.jpg

 これが一番下のポストマン。きっと三世代の中で一番若く、孫に当たるのだろう。ここまで書くのに、既に2時間を要した。撮影した作品はまだあるのだが、続きは明日に載せたい。<続く>





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Last updated  2015.12.02 05:55:06
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