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マックス爺のエッセイ風日記

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2015.12.03
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カテゴリ:写真
 昨日はかなり文章が長くなり、2回に分けて掲載することになった。今日も11月23日に出会った仙台市内の銅像を幾つか紹介したい。


  D12支倉常長.jpg

 1 支倉常長立像 1972年佐藤忠良制作 仙台城二の丸旧大手門跡の内側に設置

 この銅像が立っているのは東北大学の構内で、旧大手門内側の向かって右側直ぐの場所。作者の佐藤忠良(1912~2011)は宮城県生まれの彫刻家で、付近の宮城県美術館の一角に彼の作品を集めた「佐藤忠良館」がある。


  D13常長.jpg

 支倉常長は伊達政宗の家臣で、二度の朝鮮出兵にも従軍した強者。慶長18年(1613年)、政宗の命を受け、現石巻市で建造したサンファンバウティスタ号に乗り込み、現メキシコのアカプルコを経由してヨーロッパに向かった。いわゆる我が国最初の「遣欧使節」として、イスパニアとローマへ赴いた。目的は当時隆盛を誇っていたイスパニアと通商することだったが、首尾良く果たせず7年後に帰国した。


  D14常長.jpg

 彼はローマ教皇に謁見した初めての日本人で、キリシタンとなりローマ市民証を得た。だが、帰国後の彼を待っていたのは、「キリシタン禁止令」。政宗は罰することこそしなかったが、郷里の現川崎町支倉集落(宮城県)に幽閉され、以後元和8年(1622年)に死去するまで失意の日々をここで過ごした。まさに天国から地獄へと突き落とされたのである。


  D39城政宗.jpg

 2 伊達政宗騎馬像 小室達制作 1964年青葉城の天守台に設置

 小室達((1899~1953)は宮城県出身の彫刻家で、東京美術学校(現東京芸術大学)を首席で卒業した秀才。政宗の騎馬像は現在地に戦前建てられたが、第二次世界大戦の際兵器を造るために供出された。2代目はコンクリート造りのもので、小室達制作の銅像の型を発見して復元したのが現在のもの。高さ8mほどの台座の上にある堂々とした銅像は見る者を圧倒する。


  D40拡大.jpg

 政宗は山形県の米沢城で永禄10年(1567年)に生まれた戦国武将。天正5年(1577年)10歳で元服し、同12年(1584年)17歳で伊達家の当主となる。一説によれば、実弟小次郎を自ら殺害したと言う。眉目秀麗の弟を母が溺愛し、家臣がその意思を汲んで当主に担ぐ動きがあったのが原因と言う。母義姫(夫輝宗の死後は保春院)は最上氏の出で、兄義光に内通していたこともあった。

 憂いの源を絶った政宗はそれ以降領地を広げ、現在の福島県から岩手県に及ぶ広大な土地を我が物にした。後に秀吉の「奥州仕置」により米沢から岩出山(宮城)に移封され、さらに仙台に本拠地を移して仙台藩の藩祖となった。石高は62万石だったが領内を干拓開墾し、実質100万石に相当。内陸部に運河を造るなど物流を心がけ、余剰米を江戸に運んで莫大な利益を上げた名君。ヨーロッパへ使節を派遣するなど天下を狙ったが果たせず、寛永13年(1636年)68歳で没。陵墓は仙台市内の瑞鳳殿。


  D42台座梵天丸.jpg

 3 政宗元服姿の図 翁朝盛作

 政宗騎馬像の台座に刻んであるレリーフの一つ。作者の翁朝盛は宮城県出身の美術家で、小室達の知人だった縁で、これを制作したようだが、至って稚拙な印象を受ける。

 政宗の元服は10歳の時。幼名は梵天丸で、幼少時から虎哉禅師に厳しく指導され、この時に漢文などの素養を身に付けたと言われている。書も文も名筆名文なのは師の指導のお陰。後に白石城主となった片倉小十郎景綱は若い時から近習となり、一生をかけて政宗に仕えた。


  D43台座出陣.jpg

 4 政宗朝鮮出兵の図 翁朝盛作

 政宗は秀吉の命により、二度とも朝鮮へ渡っている。これはその出兵時の様子。塩竃神社境内、陵墓である瑞鳳殿境内、隠居所となった若林城(現宮城刑務所)境内、及び大崎市岩出山の有備館庭園内の4か所に、政宗が朝鮮半島から持ち帰ったと言う「臥竜梅」があるが、伝説か事実かは不明。


  D41台座政宗.jpg

 5 権中納言を授けられた束帯姿の図 翁朝盛作

 3、4と共に騎馬像の台座に刻まれたレリーフの一つで、政宗60歳の時の姿だが、平板で稚拙な印象。伊達家は鎌倉武士で本貫は常陸国(現在の茨城県)。戦国時代に入ると東北地方でその勢力を伸ばした。最終的には陸奥守(むつのかみ)に任じられ、死後従二位を贈られた。四国宇和島藩は政宗の長男秀宗が二代将軍秀忠から賜ったもの。石高は10万石。


  D44土井晩翠.jpg

 6 土井晩翠胸像 青葉城天守台の一角に設置

 土井晩翠は明治4年(1871年)に仙台で生まれた英文学者。第二高等中学、東北帝国大学英文科卒業。爾後郁文館中学教師、二高教授、東北帝国大学講師などを歴任。島崎藤村と並ぶ詩人としても有名。仙台市名誉市民。本来姓の読みは「つちい」だが、誤って「どい」と呼ぶ人が多いため、後に「どい」と呼び名を改めた。

 さて、東京音楽学校(現東京芸術大学)の依頼で作詞したのが有名な唱歌「荒城の月」。作曲は別な城(大分県の竹田城)を想定しているが、土井晩翠は故郷仙台の青葉城の模様を詩に詠んだ。このため胸像は「荒城の月」誕生の舞台となったこの地に、記念として設置されている。<完>





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Last updated  2015.12.03 19:23:23
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