2944633 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

マックス爺のエッセイ風日記

マックス爺のエッセイ風日記

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
2016.02.11
XML
  窓5.jpg

 先日you tubeでとある映像を観た。元はNHKのドキュメント番組のようだ。何年か前ヨーロッパアルプスの山中で発見されたミイラ「アイスマン」の子孫がイギリスで見つかったと言うもの。これはDNAやミトコンドリアの分析から解明されたのだとか。特殊な遺伝子の配列だったため、これと全く同一の遺伝子を持つ人が特定されたのだ。その方は女性で、自分の祖先がアイスマンだと知って驚いていた。周囲の人からは「アイスウーマン」と呼ばれるようになったとか。


 青森県立郷土館アイヌ衣装 異文化2アイヌ.jpg

 アイヌと縄文人の関係については、遺伝学的に極めて近い関係であることが判明した由。これまでの学説では、古代東北の蝦夷(えみし)はアイヌとは異なると言う説がある一方、アイヌと同一視する説もあった。濃い体毛や風貌など、外見上の特徴が極めて良く似ているが、科学的な調査結果は縄文人だけでなくアイヌも日本列島の先住民族だったことを意味しているのだろうか。なお、インカの末裔であるインディオも、アイヌのDNAとほぼ一致していることが判明した。


  沖8寺.jpg 那覇市崇元寺山門 

 沖縄の人々と縄文人、そしてアイヌとの共通点も確認された。これまで日本人の祖先は縄文人と後から日本列島へやって来た弥生人の混血と考えられて来た。その縄文人も一様ではなく、幾つかのパターンがあることがDNAの解析で判明した由。恐らくは北から西から、そして南西や南から、それぞれ舟に乗って辿り着き、縄文人として混血したのかも知れない。そしてさらに弥生人と混血し日本人の祖先となった。中国人や朝鮮半島の人々とはDNAのパターンが異なることも分かった。


 玉御殿シーサーの模造 家2シーサーA.jpg 

 かつて琉球王朝王族の遺骨を分析した際、インドネシア人のDNAと極めて類似性が高いことが分かった。私はそれで日本人の祖先達は結構色んな所からやって来たのだと感じていたのだ。それが最近のDNA鑑定はミトコンドリアにまで及び、さらに精度が増した。そうやって「伝説や神話」が「科学」へと変わるのかも知れない。


  29-2三輪山遠望.jpg 奈良県三輪山

 一昨年の晩秋、私は妻と奈良の山の辺の道を20kmほど歩いた。その時は時間不足で三輪山に登れなかった。この山は麓の大神(おおみわ)神社のご神体そのもので、頂上には古代の祭祀跡である岩座(いわくら)があることも知っていた。だが三輪山では飲食はおろか写真の撮影も許されないことを現地で知った。別の場所で初めて岩座を見たが、何の霊力も感じなかった。果たして三輪山の岩座はどんなのだろう。


  21大神神社.jpg 大神神社拝殿

 試しにyou tubeで画像を検索してみた。そしたら何と画像が幾つかあった。何故撮影禁止の岩座があるのかが不思議。密かに撮影した人がいるのか、それとも研究上特別に許可されたのか。そんな風にも見えないが、ともかく長年の謎がそれで解けた。なるほど霊力は感じる。古代豪族の三輪氏が、山上の大岩の前で神に祈った姿が見えたと思ったのは、私の気のせいだろうか。


      箸墓古墳俯瞰図 52箸墓航空図.jpg

 大神神社の近くには、箸墓古墳がある。そこへも立ち寄ったが、あまりにも巨大で全容が掴めなかった。この古墳は卑弥呼の墓とも言われているが、宮内庁管理の陵墓で中に入ることは出来ない。被葬者は長たらしい名前の女性で、さる天皇の皇女とされている。ところがその夫は三輪山の神で、本当の姿は蛇との言い伝えがある。一方大神神社の祭神も蛇。古代豪族と皇室の関係が窺われるが、邪馬台国は依然として謎のままだ。


  89石上神社.jpg 奈良石上神宮

 NHKの「ブラタモリ」を観た。タモリが各地の歴史と地形を学ぶ番組だ。先日観たのは四国の松山編。道後温泉のお湯と地形の関係を探るのだが、そこに伊佐庭氏と言う人が登場。「いさにわ」と読み、先祖は道後の町長だった由。その名前を私はどこかで聞いたような気がした。

 さて、日本語の「いさ」とは一体何なのだろう。誘(いざな)う、十六夜(いざよい)、イザナギとイザナミ。そして姓としての伊佐は沖縄にも存在する。


       石上神社 94石上神社.jpg 

 そう言えば福島の会津美里町には伊佐須美(いさすみ)神社がある。陸奥国二宮らしく、少し変人の神職が新しい神社の建築構想を語ってくれた。大きな柱の上に社殿を載せるらしい。私は驚いた。それは古代の出雲大社の形態そのものではないか。完全なパクリだと思ったが、実現出来るはずはないと無視した。それが規模こそ違え、やはり竣工すると後で聞いた。出雲大社の敷地からは高さ40mにもなる巨大な柱跡が、実際に発掘されているのだ。


  97石上.jpg 石上神社

 念のためにネットで「いさにわ」を検索した。その結果「伊佐爾波神社」があることが分かった。場所は道後温泉の裏手。式内社で祭神は応神天皇、仲哀天皇、神功皇后、そして宗像三女神。道後が古代から天皇家や九州の宗像大社と深く関係していたことが分かる。かつては瀬戸内海を舟で渡り、温泉へやって来たのだろう。三津(みつ)と言う港が松山にあるが、恐らく元々は御津(みつ)だったはず。皇族が船出するのに相応しい名だ。

     熟田津に船乗りせむと月待てば 潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな

 額田王の有名な歌に詠まれた古代の熟田津(にぎたつ)は、三津と松山の周辺のどこかにあったと考えられている。神社の写真は便宜上奈良の旅で撮った石上(いそのかみ)神宮のを代わりに載せた。そう言えば「いさ」も「いそ」も大変良く似ている。日本の古語は日本の古代史の謎を解く鍵なのだろうが、浅学非才の私にその力がないのが残念だ。

 





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2016.02.11 06:35:33
コメント(12) | コメントを書く
[考古学・日本古代史] カテゴリの最新記事


PR


© Rakuten Group, Inc.
X