カテゴリ:文化論
<旧氏家邸を巡る1>
角田市郷土資料館にある「むう姫のお雛様」の紹介が早くも終わってしまったのに、後は何があるのと思われるかも知れない。それが結構あるんですよね。今日は建物を紹介したいんです。それもたくさん写真を撮ったので、何回かになりそうです。そればかりが続くと退屈するので、これからは色々混ぜようかなと思っているのです。先ずは古い建物の良さを味わってくださいませ~!! 道路側にある蔵の正面です。建てられた時代は不明ですが、今もしっかりしているように見えますね。資料館のある氏家家は、角田の殿様である石川家の出入り商人とのことですが、何の商売をしていたのかは説明がありません。 ボランティアの方の説明によれば、阿武隈川の水運で儲けたと話していました。昨年訪ねた丸森町の斎理屋敷(旧斎藤理助邸)の商売も阿武隈川の水運とも関係しており、具体的には塩や水、古着、古道具、薬、麻や布などの販売、養蚕と織物などを江戸時代に扱い、明治に入ってからは製陶や銀行、昭和には住宅建築と販売なども手掛けていたようです。蔵も10以上ありましたが、氏家家ではそこまで手広く商売はしてなかった感じですね。 左は門の裏側で、右は邸宅や門の説明です。この門がかつての角田城から移設したことも記されています。明治に入って廃藩置県が断行されると、武士の暮らしは急速に苦しくなります。伊達藩の一門も旧家臣を食わせるため北海道へ渡って開墾したりします。札幌市白石区、伊達紋別市などは伊達藩士が移住、開墾したため地名となりました。 屋敷内の井戸の跡と「つくばい」です。没落した武士階級は糊口をしのぐため、刀や道具類を止むなく出入り商人に売ったことでしょう。そしてあの華麗なむう姫の雛人形も、結局は商人の手に渡ってしまったのでしょうね。 玄関口付近 玄関口付近の様子 静まりかえった廊下の佇まいが素敵でした。 障子の内側は資料館の事務室になっています。 欄間と障子を通して自然光が差し込んで来ます。とても軟らかい明るさですね。 とても高い位置に神棚がありました。天井が高いのは、元々この建物がお城の一部だったからみたいです。 幕末の戊辰戦争で官軍に負けた東北の各藩では、武士は特に悲惨な目に遭いました。こうして城の建物や備品類まで商人に売らざるを得なかったのです。 柱時計と仏壇置き場です。 大きな戸棚が備えつけてありました。 だがその栄えた商家でさえも時代の波には勝てなかったようです。いつか商売は傾き、家屋敷は市の管理に委ねることになりました。こうして江戸時代から続いた豪商も、今は資料館(博物館)として公開されているのです。<続く> お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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