2942322 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

マックス爺のエッセイ風日記

マックス爺のエッセイ風日記

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
2016.03.11
XML
カテゴリ:東日本大震災
びっくり <ご注意>このブログには東日本大震災関係の映像があります。気になる方はご覧にならないでくださいね。

 2交流館.jpg
  1交流館標示.jpg

 今日は3月11日。あの日からちょうど5年が経った。先日ニュースで知った「せんだい3.11メモリアル交流館」へ行って見た。地下鉄東西線の東端荒井駅の構内にある交流館は、直ぐに見つかった。だが私が思っていた展示や内容とは違っていた。


 荒浜地区ジオラマ 2-0深沼ジオラマ.jpg

 確かに東日本大震災関係の映像資料などがたくさん収集されていた。だが交流館の機能は、津波に襲われた宮城野区と若林区の海岸部の思い出を残そうとしているように思えた。真新しい施設内には大勢のボランティアがおり、何かメッセージを書くように求められた。だが私はどうしてもピンと来なかったのだ。

 一体誰にメッセージを書くのだろう。亡くなった犠牲者に対してだろうか。それなら心の中で祈れば良い。大勢の被害者だろうか。だが被害者がわざわざここまでメッセージを見に来るだろうか。彼らは今、必死で生活と戦っているはずだ。


 1-0荒井駅屋上からA.jpg

 私は屋上へ上がって見た。東を見るとビルが建ち始めている。ここは元々水田が連なっていた地。水平線の辺りに黒く見えるのが仙台東部道路の植林だ。津波はその向こうからやって来た。あの高さ6mの道路が堤防代わりになって、津波の侵入を食い止めている。道路の法面をよじ登って助かった人も多い。今その道路には避難所や非常階段が設けられており、もっと海に近い道路ではかさ上げ工事が進んでいる。


        3-0津波.jpg

         仙台市の海岸部を襲った津波

 あの日も今日と同じ金曜日だった。時刻は午後の2時46分。観測史上世界第4位、マグニチュード9.0の超巨大地震が発生した。大きな揺れが6分間も続いたように感じた。太平洋の海底が300kmほどに亘って崩れたことにより、大きな津波が各地を襲った。仙台市内はリアス式海岸と違って比較的遠浅の海が続く。このため津波の高さは9mほどに止まった。

 この津波で石油基地では火災が発生し、仙台空港では飛行機が流されている。多くの方が亡くり、今でも行方不明の方が宮城県内で1236名おられる。私が震災関係の映像を見たのは、地震の何日か後だった。我が家の場合電気が復帰したのは4日後、水道の復帰は1週間後、そしてガスの復帰は35日後。津波で私の従兄弟と妻の親戚が亡くなっている。


 8映像救出.jpg 

 荒浜小学校の校舎と救出用のヘリコプター。若林区にあるこの小学校は海から数百mほどしか離れておらず、4階建ての校舎に逃げた住民の多くが助かっている。だが震災後校舎は使用不能になり、現在も他の小学校に間借りして授業を続けている。


        9救出画像.jpg 

 ヘリコプターで救出された人。荒浜小学校は震災遺構として仙台市が保存することが決まった。


 7画像深沼.jpg

 海に向かう道路。津波でほとんどの物が流され、鬱蒼とした防風林も根こそぎ消えてしまった。


      6画像深沼.jpg

     海岸部の住宅はほとんど流され、土台だけが残されている。


 3-1気仙沼火災.jpg

 気仙沼市の油火災(河北新報社「巨大津波が襲った」から転載)


      10捜索活動.jpg

      被災後の救出と捜索活動。(交流館所蔵資料から転載)


3映像.jpg 12あの時私は・・.jpg

   左:荒浜地区の映像より  右:仙台市民のメッセージ(あの日は・・)


 瓦礫の山 5瓦礫映像.jpg  

 津波で亡くなった方々の遺族が起こした訴訟の結審が最近あった。某地方銀行や某幼稚園の裁判では、「津波被害の予測は困難」との理由で、原告側が敗訴した。70名以上の犠牲者が出た石巻市立大川小学校など、震災遺構の保存が難航している事例もある。あれから5年の歳月が経過し、仮設住宅集約化のために仮設から仮設へと移転せざるを得ない被害者の方も多い由。そして海岸部での街造りはこれからの市町村が大半だ。


 4映像.jpg 津波で流された車

 そもそも東京電力福島原発が、敷地を10mも掘り下げなかったら被害には遭わずに済んだはず。全電源喪失時の対応がきちんと行われていたら、被害に遭わずに済んだはず。今頃になって「メルトダウン時のマニュアルが見つかった」との公表は、犯罪行為としか思えない。恐らく隠ぺいしていたのだろう。何故被害初期の極めて重要な時期に、当時の菅総理(民主党)がわざわざ原発に乗り込んだのか。あれも被害を大きくした原因だったと思う。

 除染作業で出た大量の汚染ゴミ処理場建設が少しも進展しない。待つ間に汚染度がぐっと減少したようだ。仙台市では汚染度が低いゴミは一般のゴミと一緒に焼却処理し、何の問題も起きていない。ただ福島原発付近は厄介だろう。全町民が避難して無人の街を、イノシシなどの野獣が横行している姿をテレビで観た。


        11津波の桜が咲いた.jpg
 
        津波で倒れた桜に花が咲いた映像。

 震災関係工事で談合があったとして、最近告発された舗装工事企業がある。確かに談合は良くないが、震災後の資材不足や人手不足で建設工事が進展しなかったことは事実。特に舗装関係は工事現場近くに工場がないと無理なのだとか。

 幾つかのJR路線が今でも不通のままだ。バスが代行運転している区間が三陸海岸付近には多い。最も長い距離が不通の常磐線が全面開通するには、まだ5年以上かかるようだ。


 13植林へ.jpg

 明るい話題が乏しい中で、海岸部の植林計画が少しずつ進んでいる。ただ防風林や防砂林が元のように復活するには、今後50年は必要だろう。


       浪分桜   14浪分桜.jpg

 かつて津波が襲来した場所に「浪分神社」を建てた先人がいた。そこまで津波が到達したことを後世に伝えるためだ。今仙台市内では、今回津波が押し寄せた先端部分の各所に「浪分桜」を植えている。大きな被害があったことへの警鐘だ。その桜の写真が荒井駅の駅前に張られていた。海はここから5kmも先にあって、直接海岸を見ることは出来ない。だが桜の写真は、きっと災害の記憶を呼び覚ましてくれるはずだ。


 15慰霊式案内状.jpg 

 交流館から出る際、1枚の絵葉書を受け取った。風船の写真の裏側を見たら、3月11日に開催される慰霊祭の案内状だった。つまり今日がその日。あれから5年経った。あの日以降、私の心と体は大きく傷ついた。そして一気に老化が進んだ。

 その私に一体何が出来るのだろう。せめてブログに自分の小さな体験を記し、今日一日静かに過ごそうと思う。そして体調を見ながらいつの日か被災地を訪れて自分の目で現状を確かめ、出来れば自分の脚で走ってみたい。心の中のメッセージが天に届くことを、密かに願っている私だ。亡くなられた大勢の犠牲者の冥福を祈り、慎んで合掌したい。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2016.03.11 12:27:18
コメント(24) | コメントを書く
[東日本大震災] カテゴリの最新記事


PR


© Rakuten Group, Inc.
X