カテゴリ:考古学・日本古代史
<角田市郷土資料館の展示物>
最終回の今回は、今年の2月末に訪れた角田市郷土資料館(宮城県南部)の展示物を紹介します。あの「牟宇(むう)姫の大名雛」を飾っていた資料館の別館で、大きな蔵の中に無人状態で展示してあったものです。なお、以下の資料は全て角田市内で発掘されたものばかりですが、遺跡名などを書き写す時間がなかったことを、お断りしておきます。 1)顔のある取っ手付き壺の破片。(縄文時代) 2)顔のある土器(縄文時代) 3)顔のある壺の破片(縄文時代) このような人面のついた土器の破片が見つかることは、宮城県内の遺跡でもさほど多くはないと思われます。その点で、破片ではありますが貴重な遺物と言えましょう。 4)顎が出っ張った土偶の破片(縄文時代) 5)6)どちらも縄文時代の土偶です。土偶は人間に代わって災難を受ける存在として製作され、手足や首などをもぎ取られたのです。このことによって、人間が無事に暮らせることを祈った訳です。これは後世の「人形」(ひとがた)や「流し雛」などと全く同一の考え方でした。 7)人面のある土器(縄文時代)何かの蓋(ふた)のようにも見えますね。 8)人面に似た文様がある蓋(縄文時代) 9)縄目がついた縄文土器 10)斬新なデザインのついた縄文土器。 こうして見ると宮城県内南部の縄文土器は、新潟県の火焔型土器や青森県の遮光器型土偶のように特徴的、かつエネルギッシュな土器は少ないようです。ただし、宮城県中央部の大木囲遺跡出土の土器などには、「編年」の手がかりとなるような特徴ある装飾が見られます。 11)「有孔筒型土器」と呼ばれていますが、使用の目的は不明です。 12)左側の石器は見た目から石匙(せきひ=いしさじ)と呼ばれていますが、実際は大型動物の皮を剥ぐ時に使う道具で、持ち易いように取っ手がついています。鋭い切れ味の石器で、鋭利な石を丁寧に欠いて作ります。 13)右側の石は黒曜石の原石です。この石は火山性でガラス質のため、とても鋭利な刃物の材料になり、貴重なものです。これを細かく打ち欠いて鏃(やじり)やナイフを作ります。国内で採れる場所は限られており、東北のもののほとんどは北海道日高地方産が多いようです。 14)左側の石棒には細かい線刻が施されています。15)の石棒は男性器を模倣したものです。 縄文人の平均寿命は37歳程度と考えられています。特に乳幼児の死亡率の高さが、平均寿命を押し下げる原因です。このため縄文人の子孫繁栄に寄せる願いは、相当強いものがあったと考えられます。石棒の文様はこの願いの端的な表れで、宗教的な儀式では石棒を中心に据え、集団で祈ったのでしょう。同時に妊婦の姿をした土偶の存在も、縄文人の生命観を強く物語っています。 16)左は「紡錘車」(ぼうすいしゃ)と呼ばれる古墳時代の副葬品で、糸が撚れないよう工夫した道具です。 17)右は展示室にあった写真を写したもので、「円筒埴輪」(えんとうはにわ)と呼ばれる古墳時代の埴輪です。 県内で私がこれだけ大きな円筒埴輪を見たのは初めてです。これが古墳の墳丘に立ち並ぶ姿は、さぞかし壮観だったことでしょう。県南部に相当の権力者が育っていた証拠です。 18)左側は馬に付けた馬鐸(ばたく)です。馬の歩みに合わせて、この小さな鈴が厳かな音を発したのでしょう。 19)右側は青銅製の鏡です。どちらも権力者の証として、古墳に副葬されたのでしょう。 20)副葬品として古墳に収められた数本の鉄剣。切れ味が鋭い鉄剣は、当然権力者の象徴となります。 21)メノウ製勾玉。勾玉の形には強い呪術性があると考えられ、縄文時代から存在します。女性の副葬品でしょう。 22)メノウ製イヤリング。玦状(けつじょう)耳飾りと呼ばれ、咲け目の部分に耳たぶを挟んで使用します。 23)鍬など農耕具のミニチュアです。被葬者があの世でも食べ物に困らないよう、小さな道具を作り、副葬品として墓室内に収めました。滑石製であることがほとんどです。 24)伊具郡衙(ぐんが=郡役所の建物)軒丸瓦複製品(奈良時代~平安初期か) 当時瓦を使うことが許された建物は、朝廷の出先機関か重要な官寺に限られていました。これは蓮華文なので、郡衙の付属寺院の可能性もありますね。 25)当時の役人が書類を作成するために用いた「円面硯」(えんめんけん)の破片ですが、便利なように、硯の直ぐ傍に筆を立てるための穴が開けられています。当時としては大変珍しい最新式文具です。 26)左は中国から渡来した宋銭。27)右は中国舶載の青磁の破片です。 奈良時代の後半から平安時代の初期までは、この郡衙も機能していたと思いますが、東北の片田舎の郡役所にも中国大陸の貨幣や貴重な磁器が到来し、使用されていたことに驚きます。これで『歴史と美の形』は終了し、また別の形で続編をお届けする予定です。長い間お付き合いいただきありがとうございました。<完> 亭主の弁 今日紹介した遺物の数々は、以前紹介した牟宇姫(伊達政宗公の次女)が嫁入りの際に持参した「大名雛」などよりもずっとずっと優れた学術資料なのです。ところが説明も少なく、見学者が直ぐに帰ってしまうのが現状。県内の考古学資料として一級品だと思うのに、なんと勿体ないことでしょう。先ずは角田市民がこぞって見学し、郷土の先達が残した重要な宝物であることを、知って欲しいと強く感じました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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