2942080 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

マックス爺のエッセイ風日記

マックス爺のエッセイ風日記

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
2017.10.27
XML
カテゴリ:旅、温泉
<壱岐の旅 その2>

  

 さてお立合い。中国の正史である「三国志」の中に古代の日本について記述した「魏志倭人伝」があることは誰でも知っているだろう。朝鮮半島から最初に渡るのが対馬だが、ここでは「対海国」と誤記されている。またその次に渡るのが壱岐だが、これは「一大国」と記されている。これも「一支国」の誤りとの説が専らだ。3番目の国が「末魯国」。これは佐賀県の松浦半島付近と比定されている。
 
 右の船は埴輪から復元した古代の船。船底に大きな波切り板が付いているのが特徴の、準構造船だ。倭国(日本)の人々はこんな船に乗って朝鮮半島に渡り、陸路で中国に向かったのだろう。船は壱岐市立一支国博物館に展示された模型。この型の船を実際に海に浮かべた映像を私は観たことがある。

  

 左は博物館の外観で、右は建物内部。入館者は先ず階段で2階まで上り、ボランティアの方から説明を受けた。建物の設計者は黒川紀章氏で、これが同氏の最後の建築物となった由。

  

 中国や朝鮮半島から壱岐にやって来た船は内海(うちめ)湾に入り、そこから小舟に乗り換えて幡鉾(はたほこ)川を遡り、一支国の王都である原の辻(はるのつじ)までやって来た。なお「辻」は島の言葉で、「高地」を表す由。

  

 博物館のある丘の上からは、王都があった平野が一望出来る。ここには弥生時代の遺跡である原の辻遺跡がある。また付近には幾つかの前方後円墳や数多くの円墳が残っており、太古から栄えていたことが分かる。

 ボランティアの方(京都出身)に島内に方墳はあるかと尋ねたのだが、意味が通じなかったようだ。奈良時代にはこの付近に壱岐国分寺が置かれ、港は遣唐使船や遣隋使船の中継地になった。島の多くの寺社は、国家の威信をかけたこれらの船の航行の安全を祈ったのだろう。

  

   館内の展示品。一つ一つ丁寧に見たかったのだが、残念ながら時間が足らな過ぎた。

  

 これらも展示品だが、どれも現代人が作った「作品」。重要な展示品の撮影は不許可だった。最後に4階の展望台から付近の平野や、玄界灘を遠望した。それが上の写真だ。島のバスガイドさんはこの平野は長崎県では諫早に次いで2位の広さだと自慢。東北の農村では、どこまでも田圃が広がっているのだが。

  

 これが第2日目の昼食。またまた壱岐牛やら刺身、サザエ、蒸しアワビなどのご馳走だった。私はそんなことよりも島の月読神社のことが気になった。とても小さな神社だが、全国の月読神社の総社なのだとか。さらにこんな小さな島に式内社が140以上もあると言う。これにはビックリ仰天。古代から壱岐は大和朝廷と密接な関係があり、国家にとって重要な役割を果たして来たのだと思う。

  

 郷ノ浦港から12時35分発の対馬厳原港行きのフェリーに乗船。見る見る遠ざかる壱岐島。もう二度と訪れることはないだろう。ありがとうね。本当に良い勉強になったよ。穏やかな空に、穏やかな海。それがやがて対馬海峡では荒波に変わり、船は大いに揺れたようだが、私は2等船室でグッスリ眠っていた。14時25分、2つ目の島対馬の厳原港に入港。早速島内の観光に出発。<続く>

ノートえんぴつ 私はその時の気分で文体を変える癖があり、昨日とは異なる文体になってしまった。頓首。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2017.10.27 07:21:55
コメント(12) | コメントを書く
[旅、温泉] カテゴリの最新記事


PR


© Rakuten Group, Inc.
X