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マックス爺のエッセイ風日記

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2017.10.29
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カテゴリ:旅、温泉
<対馬の旅 その2>

       

 旅の2日目に泊まった対馬のホテル。自分の部屋から夜のチャペルが見えた。きっと結婚式場も兼ねているのだろう。右は夕食の一部の石焼き。島の海岸にある特殊な石を熱して食べ物を焼くと、遠赤外線効果で美味しくただける由。この夜も麦焼酎1杯と芋焼酎1杯を注文。どちらも深い味わいで大満足し、9時間も眠った私だった。

  

 10月21日。旅の3日目。朝になると対馬海峡を背にしたチャペルが見えた。実に美しい光景だ。朝食も豪華で、これはその一部分。8時50分、ホテルの前からマイクロバスで島内の観光に向かう。前日は若いお嬢さんがガイドだったが、この日はベテランの女性。その彼女がいきなりドラマ仕立てで島の歴史を語り始めた。

  

 最初に向かったのが厳原の万松院。ここには対馬藩主だった宗家の菩提寺と陵墓がある。宗家は10万石の大名で、ここの墓は国内でも萩(毛利家)や金沢(前田家)と並ぶ「三大墓地」なのだそうだ。

    

 宗家の家紋は「五七の桐」。古代豪族だった秦氏につながる古い家系で、祖先は大宰府の警護に携わった惟宗(これむね)氏。それが鎌倉幕府から元寇に対する備えとして対馬に配属された。上司である少弐氏は壱岐で戦死したが、惟宗氏は生き延びた。恐らく金田城や対馬の深い山奥に逃げたのだろう。戦国時代には阿比留氏を討って対馬を統一。以後朝鮮との交易を一手に握り、宗氏と改名する。

        

 陵墓に続く石段(左)と初代藩主宗義智(万松院)の墓(右)。

 朝鮮では二字姓は嫌われる。それが一字姓である宗氏へ改名した理由だろう。中国の冊封体制下にあった琉球王も「尚」と一字姓なのは同様の理由だ。朝鮮と交易していた宗家は秀吉から朝鮮征伐を命じられて困惑した。しかも先兵を勤め、小西行長と共に朝鮮王朝との交渉に当たることになったためだ。きっと「前門の虎後門の狼」の心境だったことだろう。

  

 これは第三代藩主宗義真(天竜院)夫妻の墓。

 初代の墓よりかなり立派だ。関ケ原の戦いで天下を取った家康は江戸に幕府を開き、朝鮮王国との修好に乗り出した。その命を受けたのが三代藩主の宗義真。彼は朝鮮国王からの国書や将軍の返書を偽造するなど苦労の末、両国の関係修復に成功した。朝鮮との交易独占、10万石への加増、3年に1度の参勤交代などは、その褒美だったのだろう。こうして対馬藩は大いに潤った。

  

 外交関係が良好となった朝鮮からは、朝鮮通信使が日本に派遣された。この警護に当たったのが対馬藩。江戸までの長い道中を安全に保つのは、とても大変な事業だったはず。このため藩は、近江(現在の滋賀県)出身の雨森芳洲(あめのもりほうしゅう)を御用学者として雇った。朝鮮語にも堪能な彼は、朝鮮通信使が無事帰国するまで、卒なく任務を完了させたのだ。

       

 これは対馬藩主が朝鮮国王から賜った銅器。見事な芸術品が万松院の玄関に無造作に置かれていた。こんな貴重品が「放置」されて良いのだろうか。なお対馬藩の家老が江戸城大広間で、対馬藩が朝鮮国王の国書を偽造したことをばらした。だが結果はお咎めなし。密告した家老は他藩に預かりとなった。朝鮮との仲立ちをする対馬藩は、江戸幕府にとって他に代えられない重要な存在だったのだ。<続く>





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Last updated  2017.10.29 06:17:59
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