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マックス爺のエッセイ風日記

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2017.11.01
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カテゴリ:旅、温泉
<信仰の島五島 その1>

  
       

 堂崎天主堂の庭には幾つかの彫刻やレリーフが置かれている。庭の一番奥でガイドさんが何やら説明していた。だが私は写真を撮るのに夢中で、離れた場所に一人だけいたのだ。

 

 ガイドさんが話していたのは、きっと五島列島におけるキリスト教布教の歴史だろう。説明は聞けなかったが撮った写真の中にレリーフと銘と説明があったので、拡大して貼り付けて置こう。

           

 少し補足をして置きたい。我が国にキリスト教(カソリック)を最初に伝えたのがフランシスコ・ザビエル((1506-52)であることは誰でも知ってるだろう。彼はスペインのバスク地方で生まれたバスク人。宣教師となった彼はポルトガル王の依頼により、インドのゴアで布教活動を開始する。だが、中国や日本での伝道を志して、日本人ヤジロウの案内で鹿児島に渡る。天文18年(1549年)で、時代はまだ室町幕府の頃だ。

  

 彼は島津藩の許可を得て布教を開始し、その後平戸→山口→堺→京都→山口→大分と活動を続ける。インドへ帰った後布教のため中国に向かうが、そこで病死する。まだ48歳の若さだった。その間彼と一緒に我が国へやって来た宣教師達が各地で日本人の信者を増やして行く。


                

 信長によって庇護されたキリスト教は、やがて多くのキリシタン大名を産む。有馬氏、黒田氏、内藤氏、大友氏、小西氏、蒲生氏、大村氏、高山氏、筒井氏などだ。そして明智珠(後の細川ガラシャ)などキリシタンとなった大名の子女もいた。伊達政宗の長女五郎八(いろは)姫も密かにキリスト教を信仰していたと言われる。五島列島の領主である宇久氏もキリシタン大名の一人だった。

    
    

 だが、やがてキリシタン受難の時が来る。秀吉治世の途中から禁止に変わり、徳川幕府も早期にキリシタン禁止令を出し、外国との窓口を平戸(長崎県=対中国)と長崎(対オランダ)に限定する。いわゆる鎖国体制に入ったのだ。

 全国でキリシタンが処刑された。熱心な信徒がいた天草、島原、五島もまた例外ではなかった。このため天草四郎率いる「島原の乱」が生じたり、棄教を拒んだ信徒はやがて「隠れキリシタン」となって密かに自らの信仰を守った。離島である五島は、特に有名だ。

 明治期に入ってもキリスト教徒に対する迫害が続いた。これに世界中から抗議の声が届くと、政府はようやく信教の自由を約束した。この地に再びカソリックの灯が点ったのだ。だが未だに「隠れキリシタン」の風習を守り続ける信徒が一部に存在する由。

    

 遠藤周作の『沈黙』は、隠れキリシタンをテーマにした小説で、つい最近映画化された。小説ではあるが、信仰の喜びと苦しみを同時に描いた秀作。「神はなぜ苦しんでいる人を助けないのか」。「人はなぜ苦しくなると信仰を捨てるのか」。実に重たい命題をこの小説は問いかける。

 この五島での布教活動は小説にも出て来る。そして最後まで信仰を守って死んだ者と、神を裏切って「転んだ」信徒の苦しみも鋭く描かれている。

         

 ガイドさんからは予め小さな紙片を渡されていた。カソリック教会で目にするシンボルなどについての解説だ。ギリシャ語やラテン語などの略語もある。普通のバスガイドはこんなことはしない。実直そうな70歳の老ガイドの正体が、元小学校の教師であることが翌日判明する。何と現役の公民館長らしい。道理で正確で丁寧な説明だった訳。高校、大学は大阪へ出た由。よほどの秀才だったのだろう。<続く>





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Last updated  2017.11.01 00:00:11
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