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マックス爺のエッセイ風日記

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2018.12.13
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カテゴリ:旅、温泉
<香取神宮にて>

             

 香取駅から神宮まで30分は歩くはず。途中には緩い坂道があった。その道路を小学生が走っている。「香取マラソン」のポスターを見たので、その練習だろう。そう考えて「何km走るの?」と尋ねると2kmの部らしい。そしてマラソンは2週間後とのこと。帰路も親子で走っている姿を見かけた。もうランニングは無理だが、元ランナーとしてはとても嬉しい光景だ。

  

 ここが神宮の入り口。参拝者の姿は思ったほど多くはない。佐原駅からの循環バスの本数はかなり少なく、大半の人たちは車で来ていた。土産店の人影も少ない。さすがに大晦日や元朝参りの際は混むのだろうが、日曜日と言うのに何だか寂しい印象を受けた。これは時代の趨勢なのか、それとも地の利なのか。

   境内の略図  

 これは単純な図だが実際の境内は広く、拝殿まではかなり遠かった。総門の手前左手に神池があり、その奥に「要石」(かなめいし)があるようだ。そこは最後に寄ることにし、先ずは参道を真っ直ぐ進んだ。

  

 両脇の石灯篭が見事。さすがは下総国(現在の千葉県北部)一之宮だけのことはある。ちょうど紅葉が見ごろで、今シーズン中に見た中でも最高の部類。美しくかつ奥行きのある境内で、日ごろの運動不足が解消出来た。幸い懸念していた足の痛みが、全く出ないのが予想外で嬉しい。

  

 ここは総門。この先に楼門や拝殿と本殿がある。鹿島神宮の祭神は経津主大神(ふつぬしのおおかみ)。由緒によれば、鹿島神宮の祭神である武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)と共に出雲に出向き、国譲りを受けた由。その後は関東に鎮座して、東国制定の拠点になった。まさに建国の立役者そのもので、古代から人々に尊崇された理由もそこにあるのだろう。

         

 これは楼門で、徳川5代将軍綱吉が元禄13年(1700年)に建立した由。昭和58年に重要文化財の指定を受け、門の両脇には神像が安置されている。

         

 そしてこれが拝殿。総門と共に昭和15年の「皇紀2600年」を記念して建立され、平成13年に国の登録文化財に指定。香取神宮は蝦夷征伐にも神威を発揮し、鹿島神宮と共に戦勝祈願地かつ出発地となった。「武運長久」を願って出陣する、いわゆる「鹿島立ち」の言葉はここから生まれた。

    

 時間が十分にあったため宝物館に入館。古代の「神獣葡萄鏡」(しんじゅうぶどうきょう)が一番のお宝だろうか。館内は撮影禁止なので、ネットから神輿の画像を借用。海上自衛隊の艦船「かとり」の名に因み、自衛隊関係の寄贈品が目についた。

       

 さて、境内の摂社、末社は30を超える由。これは帰路に寄った境外末社の押手神社に祀られていた稲荷。祭神の宇迦之御霊神(うかのみたまのかみ)は食べ物を司る神であり、字が異なる宇賀神も同一神でサッカーJ1に同名の選手がいる。「稲荷」の名は、稲作儀礼と深い関係があったためだろうか。

  

 押手神社の傍、囲いの中にあったのが左の「要石」(かなめいし)。私たちの祖先は地震の原因を地中の鯰が暴れるためと考え、要石はその鯰を封じると信じて来た。地表に見えるのは直径30cmほどだが、地中にはこの数百倍が埋まっている由。到底信じられないが、鹿島神宮にも同じような要石が祀られている。香取のは凸で陽、鹿島のは凹で陰。つまり一対で陰陽を表すと私は考えたがどうだろう。

 右は江戸時代の浮世絵の一種で、「鯰絵」(なまずえ)と呼ばれるもの。地震の源である大鯰を抑えているのが「要石」。迷信だが庶民は本気でそう信じた。この周辺は現在でも地震の多い土地柄であり、当時の思考や信仰を、現代のわれわれが非科学的と笑うことは出来ないだろう。<続く>





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Last updated  2018.12.13 00:00:29
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