カテゴリ:旅、温泉
<鹿島神宮にて>
前方に見えるのが大鳥居。北浦に立つ一の鳥居から数えて、ここは三の鳥居なのだろう。香取神宮に比べて人出がある。ここで結婚式を挙げたのか、新婚の夫婦が境内で仲良くカメラに収まっていた。 堂々たる造りの楼門は初代水戸藩主徳川頼房公の奉納によるもので、重要文化財に指定されている。 寄進されたお神酒(薦被り)がずらりと並ぶ、良く見かける風景だ。 これは本殿で徳川二代将軍秀忠公の奉納によるもので、重要文化財指定。自分が撮った写真があまりにも暗く、本物と似つかわしくないためパンフレットから借用した。人間の目には鮮やかに見えたのだが、レンズを通すとあまりの違いに驚く。別の機会に比較してみたい。 専用施設で飼われていた鹿の群れ。藤原氏の氏神である春日大社の縁起によれば、ここ鹿島の鹿が奈良の神鹿となった由。春日大社及び鹿島神宮の祭神「武甕槌大神」(たけみかづちのおおかみ)は藤原氏(中臣氏)の祖とされるが、藤原氏の強大な権力が逆にこの地方にも影響を与えたとする考えが妥当ではないか。理由は中臣氏が古来より宮中で神事を司った豪族だったためだ。 裏側から見た「奥宮」。これは慶長10年(1605年)徳川家康が、「本殿」として奉納したものを元和の本宮造営時に奥宮としたもの。当時は定期的な遷宮があった由。重要文化財指定。 上は要石と「鯰封じ」のレリーフだ。香取神宮の要石が凸型だったのに比し、こちらは凹型。大きさは上に載っている5円玉と比較されたい。一説によれば天下の副将軍、水戸(徳川)光圀が土を掘って地中の石の大きさを確かめたと言うが、そんな「罰当たり」なことはしないはず。それに彼は「大日本史」の編纂で忙しかった。なお右の「鯰封じ」の石像は、第6回掲載の「鯰絵」と同じ構図みたいだ。 「要石」の近くに芭蕉の句碑があった。だが風雪に曝されて字が読めない。横の木札に「枯枝に鴉のとまりけり穐の暮」(かれえだに からすのとまりけり あきのくれ)とある。「中七」が9音とは珍しい。「穐」は秋の「本字」。何ということもない平凡な句のように思えるのは、私が「凡人の第5位」のせいか。 一茶の句もあった。大地震は「だいじしん」ではなく「おおなえ」と読む。なお「松の花」は春の季語。芭蕉の句よりも現実味を感じるのは私だけか。 鹿島神宮のポスター 夕暮れが迫る中、駅へ向かった。駅員によれば私の切符では「鹿島臨海鉄道」には乗れず、かつ東北新幹線の最速車両には空きがない由。仕方なく往路と同じ経路で帰り、東京から「やまびこ」に乗車。帰宅したのは家を出てから16時間後。本当に忙しい1日だった。いよいよ翌日は旅の最終日。この夜も目覚まし時計をセットしたのだが、結局役立たなかった。<続く> お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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