テーマ:★☆沖縄☆★(2874)
カテゴリ:心のふるさと「沖縄」
~暮らしと祈り その2~
普天間宮奥宮 沖縄の聖地の一つがガマ。洞窟のことだ。隆起石灰岩で覆われた沖縄には、こんな鍾乳洞が多い。家を建てる技術がなかった時代、祖先たちはこの洞窟で暮らした。洞窟は風葬の適地でもあった。沖縄では「貝塚時代」が長く続き、近世になってようやく神社が建てられる。奈良三輪山の山頂の何もない磐座(いわくら)。あれが原始神道そのもの。糸満市の白銀堂や那覇市の波の上宮にも洞窟がある。 普天間宮奥宮 琉球王朝への仏教伝来は鎌倉時代あたりと言われる。補陀落信仰の舟が熊野や足摺岬から琉球に漂着し、僧が漢字と仏教を伝えたと。中国からではないのだ。ただし仏教は琉球王の繁栄を祈るためで、しかも許されたのは真言宗と臨済宗。それは支配者の薩摩藩がそうだったためで、琉球の神社建築は真言宗の寺にのみ付随していた由。だから庶民の信仰は依然として御嶽などの民間宗教だったのだ。 百按司墓 百按司と書いて「むむじゃな」と読む。本島北部今帰仁村(なきじんそん)の運天にある風葬墓だ。一説によれば今帰仁城主や、その縁者が葬られたと伝わる。さて日本神話にも風葬の気配が漂う。イザナギが亡き妻イザナミを訪ねて黄泉の国に行った際、顔にウジ虫が湧いた姿で現れた前妻。自然に遺体が腐る風葬は、湿度が高い日本には適していたはず。まして高温多湿の沖縄ならさらに合理的なのだ。 かつて東京帝国大学がここの遺骨を持ち出した。研究のためだが、未だに理学部人類学教室にあると聞く。同様にアイヌの墓から人骨を掘り出した北海道大学は、その後遺骨を返却した。こちらは比較的に新しく、末裔がはっきりしていたのだろう。 <宮古島 仲宗根豊見親の墓> 聖地を訪ねるうち、幾つかの風葬墓に出会った。中が丸見えで累積する白骨。県道のすぐ傍だったのにはビックリ。戦前までは風葬の遺骨を数年後に洗う風習があった。それに近い風習が鹿児島の与論島に残っている。岡本太郎に風葬墓を案内した久高島の島民が狂死したかつての事件。風葬地は島外の人間には秘密で禁忌の場所。また貧しい墓制と考える島の人たちの屈折した思いがあったのだろう。 <中城城のうふがー(大井戸:左)と西原町の拝所(右)> 民間信仰として、火の神(ひぬかん)や魂を呼び戻す「ゆた」が存在する。ゆたは恐山の「いたこ」と同じ源だろう。発音も近い。「ゆた」はかなりインチキそうだが、沖縄では今でも魂の存在を信じる老人が多い。私は恐れ山のイタコさんから修行の話を聞いたこともある。「土帝君」や「孔子廟」は中国との柵封体制成立後大陸から伝わったのだろう。 ところ変われば品変わる。エイサー(左)やミルク(右)が仏教から来たものと聞いたら驚くかも知れない。勇壮なエイサーは沖縄の「盆踊り」に相当し、ミルク神は弥勒信仰が変化したもので、あの世から人々に幸いをもたらす存在だ。祖先を大切にし、世果報(ゆがふう=豊作)を祈る気持ちは、今なおうちなんちゅ(沖縄人)の切なる願いで、様々な伝統行事として伝えられている。<続く> お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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