2940086 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

マックス爺のエッセイ風日記

マックス爺のエッセイ風日記

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
2019.01.26
XML
~人はどこから来たのか その3 伝説編~

  

 『遠野物語』で有名な民俗学者、柳田國男の学説に「海上の道」がある。日本人に欠かせない米や稲作文化は海上の道すなわち琉球列島の島々を経由して伝わったとする考え方だ。台湾から九州まで点々と続く南西諸島を通るとする説は、当時は説得力があった。だが柳田の専門は伝説や風俗で、考古学的な発想は乏しい。沖縄の縄文土器から見ても、九州から沖縄へ向かう人や文化があったのは確実だ。

 アマミキヨの墓  

 さて琉球神話によれば、島へ最初に来た神はアマミキヨとシネリキヨの夫婦神とされる。その名前からも彼らが海人(あま)族だったと推定出来よう。奄美の「あま」にも通じ、海の民だったことが分かる。2人の墓は沖縄本島東部の浜比嘉島にある。また穀物の種が久高島の浜辺に漂着したとの伝説や、夫婦神が本島南部から上陸したとされる。つまり祖先は北から南へと向かったわけだ。

   

 沖縄には源平どちらの伝説もある。左は源為朝。島流しにあった八丈島を抜け出し、琉球へ来て舜天王の先祖となった話だが、いささか荒唐無稽。一方の平家は敗れて南島へ逃れたと言ういわゆる「落人伝説」。先祖が貴人の末裔とする思想は日本の各地にある。古代の文献には、阿児奈波(あじなわ=沖縄本島)、久美(くみ=久米島)、志覚(しかく=石垣島)の名が残る。きっと現地人の発音がそのように聞こえたのだろう。

  渡海船  

 写真は和歌山県補陀落山寺の渡海船の模型。海の彼方にある極楽を目指す僧が、1か月分の食料だけ持参してこの船に乗る。扉は釘付けされ、波に流されるままに漂う。この補陀落信仰の僧が古代琉球に仏教と漢字を伝えたとされる。確か13世紀以前と記憶しているが、それほど沖縄の「歴史時代」は新しく、かつ謎に満ちている。琉球への文化伝来の一端が窺える話だ。

  

 「倭寇」も沖縄と密接に関わっている。本拠地は九州にあり、中国沿岸を目的地に定めた後期は、沖縄本島東海岸や宮古島に「基地」を設けたとされ、両地区に内地と共通する地名や人名が多いのはそのせいと言われる。中国は当時沖縄を「大琉球」、台湾を「小琉球」と呼んだ。後年中国の柵封使をもてなした「識名園」は海が見えない場所で、琉球の広さを悟られないための策。中国にとっては「大琉球」だったのだろう。

     尚円王肖像 

 第二琉球王朝初代王尚円(しょうえん)は本島の北に位置する伊是名島出身で、庶民の出。これが島民から追放されて本島に渡り、やがて王に仕える。その遺児が幼かったため、臣民に推されて王位に就いたとされるが実際はクーデターだろう。本名は金丸(かなまる)で、日本の名そのもの。一説によれば倭寇の末裔との説もあるが、果たして時代が合致するかまでは確認していない。

    辺戸岬

 沖縄本島最北端の辺戸岬の海中洞窟から、縄文時代の住居跡と遺物が見つかった。当時琉球大学理学部の木村教授の調査隊が潜水して調査したのだ。実はこの岬こそ、琉球神話の夫婦神が最初に上陸した地点なのだ。「縄文海進」で洞窟は海中に没したが、なかなか示唆に富んだ事実。夫婦神はここから島の東海岸にそって南へ向かった。神話や伝説が幾ばくかの真実を秘めているとは言えないだろうか。<続く>





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2019.01.26 00:00:29
コメント(2) | コメントを書く
[心のふるさと「沖縄」] カテゴリの最新記事


PR


© Rakuten Group, Inc.
X