カテゴリ:旅、温泉
~角館の武家屋敷・青柳家にて~
旅の最終日。私たちは仙北市角館の武家屋敷を訪ねました。2月11日のことでしたが、当時はまだこれだけの雪がありました。以前、角館をスタート地点にする100kmマラソンを走った際、その前日に武家屋敷を訪ねたことがありました。そこは下級武士の屋敷で、さほど見るべきものはなかったのです。 でもこの青柳家は上級士族。屋敷の場所もお城に近く、敷地も広いのですよ。従って見るべきものもたくさんありました。なお、建物群は県の指定文化財です。 ちなみに、これは当日配られたパンフレット。天然記念物の枝垂れ桜が見事ですね。 驚いたことに、庭の一角にこのようなものがありました。当家が宣伝用に作った祭りの山車でしょうか。 拡大すると歌舞伎の演目みたいで、「坂田金時」と読めます。どうやら蜘蛛(クモ)の化け物を退治しているみたいです。 昼食後は自由行動の時間で、敷地内の建物を自由に散策します。巨大な蔵の軒場に見事な氷柱が垂れ下がっていました。 見事な甲冑(かっちゅう)と陣羽織が保存されていました。 おびただしい数の甲冑類が整然と陳列されていました。かなりの役職だったのでしょうね。 旗指物(はたさしもの)の一種なのか、家紋が入っています。 鉱石の標本がありました。ちょっと場違いな感じを受けたのですが。 この説明を読んで納得。青柳家は藩命により南部藩との藩境を見回り、かつ各種鉱石の採鉱に関与していたようです。上の鉱石は何の金属かを確認するための標本として、代々青柳家に伝わったのでしょう。採鉱に関して平賀源内から直接指導を受けたと言うのも実話だったようです。後年秋田大学には、国内で唯一「鉱山学部」が置かれました。鉱山が廃れた現在では、学部の名称も変更されています。 物入れ(収納ボックス)の数々。 陶器、磁気の類。 小野寺直武が描いた美人画です。これもごく普通の収蔵品かとおもったのですが。 ところがこの男は、ただの絵師では終らなかったのです。一説によれば平賀源内に西洋の遠近法を学び、自分の絵に取り入れたのみならず絵を愛した藩主の命により、近代絵画の画法を学ぶべく江戸や長崎に出向き腕を磨きます。 写実的な描写も修練の結果得られたものです。 その集大成が「解体新書」の挿絵。近代画法を学んだ彼は、杉田玄白らの要請により誰もまだ手掛けたことのない人体図を初めて描いたのです。日本の医学向上に多大なる貢献をした小野寺でしたが、藩命と違った道を歩んだことを咎められて蟄居(ちっきょ)し、その後悲嘆のうちに死ぬのです。しかしなぜこの青柳家に、このような資料があるのかは不明です。 明治新政府の原動力となった元勲の写真と氏名一覧。秋田の佐竹藩および角館の支藩は当初幕府側でしたが、後に官軍側に付きます。その恩賞でしょうか、廃藩置県後有望な鉱山を持つ旧南部藩の鹿角地方は秋田県に編入されます。幕末から明治にかけて、帰趨を巡って揺れ動いた東北諸藩を象徴する出来事ですが、青柳家がこれらの資料を大切に保存した理由も分かるような気がします。<不定期に続く> お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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