テーマ:日本の古代史(67)
カテゴリ:考古学・日本古代史
<東北歴史博物館特別展を観て2>
展示目録の中に1枚の地図が載っていた。そこには色んな記号や、「仕切り」や説明が施されている。だがあまりにも専門的過ぎて、多くの読者は理解出来ないだろう。ただ言えるのは「大和朝廷」と「エミシ」には色んなせめぎ合いがあったと言う事実。文化と墓制の違い、農業の違い、時代による民族の移動と支配地の変遷などが浮かび上がる。エミシは国内統一の最後の砦だった。 中央に「山道蝦夷」、太平洋側に「海道蝦夷」の名が見える。山道エミシは「東山道」の奥に住み、北端のエミシは「爾薩体(にさったい)」。初期は北上川を船で遡って攻め込んだ。一方海道エミシは「東海道」の太平洋側で、北端には「閉伊(へい)」がいたが、共に文屋綿麻呂に征伐される。なおこの際の「道」は「地域」の意味。 上右は大和朝廷側の前進基地である城柵(じょうさく)が設置された場所を示す地図。上左はその設置年。日本海側は647年のぬたりの柵(新潟)、658年つきさら(新潟)、689年うきたむ(山形)、709年出羽柵、780年秋田城と北上する。出羽国(秋田、山形)は陸奥国からの分国。 一方太平洋側には737年の多賀柵を嚆矢として海道、山道それぞれに前進基地が築かれて行く。この間780年には陸奥国府並びに鎮守府が多賀城に置かれ、それ以前には仙台市太白区郡山に多賀城の前身となる国府が置かれたと考えられる。やがて坂上田村麻呂が征夷大将軍に任ぜられ、北上川を北上してエミシを攻め、盛岡市の志波城が803年に築かれる結果、エミシが朝廷に下ることになる。 <ねぶた絵 津軽エミシを征伐する阿倍比羅夫(右)> 話は前後するが、斉明天皇4年(658年)越の国守阿倍比羅夫(あべのひらふ)は渡島(現在の北海道)のミシハセ(北方民族)を180隻の水軍で征伐。また飽田(あきた=秋田)周辺のエミシも征伐し、服従した恩荷(おんが=男鹿)を能代、津軽の郡領に命じた。後に将軍となって朝鮮半島に出兵し、663年百済と連合して白村江で戦い敗北する。東アジアは日本海を巡って揺れ動いていたのだ。 <国府多賀城政庁跡地の発掘現場> 多賀城は陸奥国府であると同時に、北辺の国庁としてエミシの懐柔に当たり、治安に努めた。新たに郡を置いて関東周辺から農民を移住させて農業を興し、税を治めさせた。このため、人と共に地名や神社も移って来た。多賀城裏面にある総社の宮には、移住者が信仰した各地の氏神など100社がまとめて分祀されている。また多賀社を国府の守護神として分祀し、これが多賀城の地名の起源となった。 <多賀城政庁復元図> 国府多賀城は小高い丘の上に建てられ、周囲を堅牢な塀で蔽われていた。城内には5万人もの兵士が駐留し、城下には整然とした大路が縦横に整備され、付属寺院が設置されていた。出土した土器に「観音」の名が見えることから、観音寺だと推定される。また陸奥国府鎮護と航行を守るため、陸奥国一之宮として塩竃神社が置かれた。城下には市が立ち、官人や兵士の食料や塩などが国内各地から届けられた。 <政庁前での朝礼の様子> 丘の上の堂々たる建物群は、服従したエミシにとっては異次元の世界に見えたことだろう。付属寺院の荘厳さ、政庁前における朝礼の儀式など、彼らにはすべてが驚きの光景だったに違いない。これが朝廷の威光か。これが律令国家の実態か。ほとんどのエミシは、心から恭順の意を示したことだろう。ところがやがてこの地で一大事件が発生する。<続く> お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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