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マックス爺のエッセイ風日記

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2019.10.07
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~東北歴史博物館特別展を観て その3~

   
    <古代の官道と城柵(宮城県内)>

 古代の官道は道幅が広く、極力直線的に造られている。また約18kmごとに駅舎を設け、中央政庁との連絡用の馬がいた。これが「駅伝」の起りだ。官道(黒線)は下野国(栃木県)から多賀城に到り、伊治(これはり)城へから岩手県南部の胆沢(いさわ)城、盛岡の紫波(しわ)城へと続いていた。また反乱した出羽のエミシを鎮めるため、宮城県大崎市から秋田県内陸部に至る道が新たに造成された。

            
                  <伊治城平面図>

 伊治城はエミシ対策上多賀城創建以前に築城され、元エミシの伊治公呰麻呂(これはりのきみ・あざまろ)は服属し、伊治公姓を賜る。「これはり」が後の郡名「栗原」になったと言われる。桃生城主の道嶋氏が嘲笑したことに逆上して伊治城内で道嶋を殺害し、さらに国府多賀城を急襲。このため多賀城は炎上し落城と言う大事件が起きた。だが逆賊である呰麻呂の墓が今も残されているのが不思議だ。

  
        <胆沢城の鬼瓦>

 前進基地はさらに北上し、坂上田村麻呂が征夷大将軍兼鎮守府将軍となって胆沢城に駐屯。北上川を船で北上して阿弖流為(あてるい)や母礼(もれ)らが率いるエミシ軍と戦い、これを下した。勇猛で人望のある彼らの命を惜しんだ田村麻呂は彼らの助命を嘆願するが、公家らの反対で死罪が決定。大和川の岸辺で2人は惨殺される。近年になって、清水寺の舞台下に彼らの慰霊碑が建立された。

        
                <志波城南門=盛岡市=復元>

 最前線の城が盛岡市の志波(しわ)城。ここを根城にして田村麻呂は戦った。さらに文屋綿麻呂(ふんやのわたまろ)は八戸方面のエミシである爾薩体(にさったい)と久慈方面のエミシ閉伊(へい)を襲って平定する。その後川の氾濫により城域が破壊されると、南の徳丹城まで退き、志波城はそのまま放置された。現在城跡は公園として復元され、付近に盛岡市立「学びの館」が開設されている。

  
        <秋田城水洗トイレ復元状態>

 一方日本海側での最北端の古代城柵が秋田城だった。飽田(あきた)のエミシの鎮圧のため、内陸部に雄物柵が築かれ、一進一退状態で朝廷軍が北上する。秋田城は日本海を見下ろす丘陵地にあり、後に山形から出羽国府が移転し、日本海を通じて兵士や食料が送られて来た。現在秋田城南門と当時の水洗トイレなどが再現されている。渤海使(ぼっかいし)の迎賓館がここに置かれていたのだ。

 渤海国は唐と新羅の連合軍と戦って絶滅した高句麗の末裔で日本海沿岸に立国し、庇護を求めて朝貢して来た。当時は潮流に乗るしかなく、都から遠く離れた能登半島に接待所が置かれた。秋田への来航は貿易が目的との説もある。環日本海貿易の端緒であり、後世の平泉文化を支えた十三湊の安東氏の貿易にもつながる。それによって大陸の馬や蝦夷錦、海獣の毛皮などの貴重品がもたらされた。

     
               <前九年の役絵図断片>

 律令体制下に入った後も東北では元エミシ同士の戦いが続いた。羽後国(秋田)を舞台にした前九年の役(ぜんくねんのえき)では源氏と清原氏の連合軍が、奥六軍(岩手)の元エミシ安倍氏と戦って安倍氏が敗北。後三年の役(ごさんねんのえき)では逆に源氏と結んだ安倍氏が清原氏を滅亡に追い込んだ。この後安倍清衡は父祖の姓藤原氏を名乗り、奥州藤原氏として平泉に壮大な都と寺院を築く。

   
   <平泉・柳之御所から出土した鏡(左左)と人面が描かれた壺(右) >

 奥州藤原氏は4代に渡って栄華を極め、平泉は東の都と呼ばれるほど繁栄した。だが義経を匿ったとの理由で頼朝は関東から騎馬軍団を派遣し滅亡させた。この敗北により、東北の古代は終わりを告げた。

 さて東北は歴史の中で3度朝敵とされている。1つ目は古代のエミシ征伐。2つ目は頼朝による奥州藤原氏討伐で、東北の富は鎌倉幕府のものとなった。そして3つ目が幕末の「戊辰戦争」。朝敵となった東北各藩は、明治後暫くの間は冷遇を受けた。振り返れば実に長い忍従の歴史であった。

      
            <東北歴史博物館所有 今野家住宅>

 この特別展はテーマがかなり専門的であり、かつ対象となる地域と時代が限定されている。私には垂涎もののテーマだが、ほとんどの読者は文章を読むのでさえ苦痛だろう。そこで「展示目録」の写真を載せ、説明も平易に書き直そう。そうすれば幾分理解が進むのではないかと考えたのだが、その目的は果たせただろうか。さらに私見を述べたいところだが、それはいずれの日にかに譲ろうと思う。

          
            <今野家住宅のカマ神=かまどを守る神様>

 目録は展示物のリストで、あったのは専門家によるごく手短かな解説のみ。それも学術的過ぎて読者には理解が困難と判断。そこでウィキペディアなどを参照し、より簡明に書き直した。これが自分にとってはとても良い勉強になった。また今回の特別展に遭遇したことによって、長年抱いていた歴史上の謎が一挙に解決した感が強い。この場を借りて謝意を記し、本稿を一旦閉じることにしたい。<完>

 ノートえんぴつ 同日に観た企画展も、いずれ紹介する予定です。ダブルハートバイバイ





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Last updated  2019.10.07 06:37:46
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