カテゴリ:日本史全般
~出雲大社の謎~
出雲大社の境内の一角に、堂々たる建物がある。大社と同じ注連縄が飾られ、「出雲国造千家国造館」の看板が掛けられている。奈良時代にあった「くにのみやつこ」と言う言葉が未だ生きている出雲。日本広しと言えども、そんな場所は出雲だけだろう。この千家(せんげ)家は代々出雲大社の神職を務める家柄で、装束は上下とも黒と決まっている。 その若き当主である千家國麿氏に嫁いだのが旧皇族、高円宮典子女王。数年前のことだが私にはとても印象深い出来事となった。皇族の降嫁は滅多にないからだ。天皇の妹君である清子内親王が黒田氏に嫁いだことも思い出される。だが皇族と出雲国造の血を引く千家家との婚姻はとても衝撃的な出来事。なぜなら出雲王国の地を「国譲り」と言う名のもとに奪った当事者が天皇家だったのだから。 その出雲国造がもう一つあると聞いたらもっと驚くだろう。「北島国造家」がそれだが、名乗れたのは中世から明治初期までの数百年間のこと。立憲君主制を推進する明治政府の方針で、北島家は国造家を外された。だが当家には、代々口伝えで秘密が伝えられていた。それは「国譲り」に対する恨み言。豊かな国土を大和王権によって無理やり強奪されたとするもので、世間には明らかに出来ない秘中の秘だった。 千家家が表の宮司なのに対し、北島家は陰の宮司で一切表には出ず、祖先から伝わる恨み言を代々引き継いで来た由。私はそれを産経新聞社の社会部長だった方の著書で知った。その方が北島国造家関係者だとすれば全て符号が合う。現在は「出雲教」の看板を掲げて宗教活動を展開している。一方の千家国造家は「出雲大社教」。恐らくは人事上の制約を受けないよう、両社とも神社本庁には属していないはず。 事代主神 再び神話の世界に戻ろう。国譲りを迫られた大国主神は次のように答えた。「私には2人の息子がいます。彼らが良いといえば譲りましょう」と。早速釣りに行っていた兄の事代主神が呼び返された。彼は「良いですよ」とあっさり了承した。だが弟の建御名方神は強硬に抵抗し、科野国(信濃=長野県)の諏訪に逃げ込んだ末に敗北。これ以降科野国から一歩も出ないことを約束することになる。 諏訪大社 上は諏訪大社だが、注連縄(しめなわ)の形を良く見て欲しい。何と出雲大社のものと寸分も違わない。つまり蛇のシンボルとしてのあの形だ。あっさりと国譲りをした大国主命と事代主神は、大和政権にとっては恩人。大国主神は大黒様、事代主神は恵比寿様として長く慕われる存在ととなった。一方の建御名方神は今も怒り狂い、山から大木を落としている。それが「御柱大祭」の由来ではないかと勝手に考えているのだが。<続く> <お断り> 出雲神話に関する解釈は様々です。ここに紹介したのはその一部で、異なる見解もあります。関心のある方は是非ご自分で謎解きに挑戦されたらいかがでしょうか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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