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マックス爺のエッセイ風日記

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2020.01.24
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ほえー蘇る死者>

              

 皆の衆今日は!わしの名はオワケノ臣。住所は埼玉県行田市にある「埼玉古墳群」の一つ、稲荷山古墳の住人じゃよ。だがわし宛に手紙を出しても届かんぞ。なにせわしは今から1529年ほど前に死んどるでのう。それでもわしの名が日本全国に知られるようになったのは、わしの墓から1本の錆びた鉄刀が発掘されたからなんじゃよ。何とも不思議な話じゃ。今日はわし自身がわしの話を聞かせてあげようかのう。それにしても足元がスース―するぞ。何せわしは靴も靴下もないでのう。ふぉっふぉっふぉ。

  

 これがわしが1500年以上も眠っとった稲荷山古墳じゃよ。墓は左手の階段を上った頂上にあっての。本当は2つの墓があったんじゃよ。わしの他にももう1人横に眠っておったんじゃのう。ふぉっふぉっふぉ。

  

 こっちはもう一人が眠っておった石郭のある墓。ひょっとしてわしの親父どのじゃったんかのう。だがのう生憎そっちの方は後世盗掘にあっての、何も残ってなかったらしい。どの時代にも悪いヤツがおったんじゃのう。もしわしが生きとったら、絶対許さんのじゃがなあ。う~む残念無念。泣き笑い

             

 でこっちがわしの寝床もといお墓があった場所。石ころを集めた墓を考古学の世界では礫郭(れきかく)と言うらしい。もっともこのままではみじめ。そこでわしにも少しマシなお棺が造られたんじゃ。

  

 これがわしの棺桶じゃよ。大木を真っ二つに割っての。中を刳り抜いてあるんじゃ。礫郭が凹んどるのは、この大木の重さによってなんじゃよ・ふぉっふぉっふぉ。そしてわしの横には全部で5振りの鉄剣が置かれていた。もちろんわしはこの辺の豪族でかなり力を持っていたからのう。ふぉっふぉっふぉ。

  

 これが後年金歓嵌文が発見された鉄剣じゃ。なに、2本もあるってか。いやいやそうじゃない。これは分かりやすいように表と裏の両方をみせたんじゃ。ここに彫ってあった115文字の文が、やがて日本国内を驚かせたんじゃから愉快じゃのう。やあ痛快痛快。
        

 さて、こっちは何にも書かれてなくても国宝になった鉄剣じゃ。なに、それは不公平じゃとな。いや、そうではないんじゃ。115文字の銘文の解析で、副葬品として備えられた他の品々も、その貴重性ゆえ国宝になったと言う訳じゃ。貴重な歴史資料だからのう。それは3日後くらいに話すことにしよう。

1)死者の名前などについて。

  

 最初にある漢字の名前がわし。これで「ヲワケ」と読むんじゃよ。そしてここにはわしの名のほかにご先祖様のオオヒコ以下7名の名が刻まれておる。みなわしらの一族。つまりこの地を治めておった豪族(推定=笠原氏)なんじゃよ。そこまで分かったんじゃからビックリポンと言う訳さ。

 2)わしらがしていた仕事の話・

   

 ちょっと難しい表現じゃが、わしらは代々杖刀人首と言う役職に就いておったんじゃ。でもここでではないぞ。都におられる天皇の警備隊長と言ったら分かるかのう。つまりは腕を見込まれた武官なんじゃよ。そして遥々遠い都へ派遣されたと言う訳なんじゃ。都へは後の中山道を通るのが普通。山道で一見遠回りに見えるが、逆にその方が安全だったんじゃ。太平洋側の東海道には大河が多くて、渡るのが大変だったからのう。一旦大雨でも降ろうものなら当分の間は増水しとるでのう。

 3)わしらが仕えた人の名は

    

 ハハハ。もう分かったじゃろう。ワカタキルさま。つまり後世第21代の雄略天皇と呼ばれたお方じゃ。この方はとても乱暴での、ご自分の本当の兄弟を何人も手に掛けたことで悪名が高いんじゃ。そして「宋書のいわゆる「倭の五王」の1人である「武」に比定されておる。やはり腕力が強かったでの。わしらもいつ罰せられるかとヒヤヒヤしとったぞ。ここだけの話」。

   

           しっかり刻まれた「ワカタキル大王」の金色の名が眩しい。

 実は、このワカタキルの名を刻んだ剣が熊本県の古墳からも出たことで、雄略天皇が実在したことが歴史的に確認されたと言う、日本史上の一大発見につながった訳。だからこそこの鉄剣が国宝となり、同時に埋葬された副葬品の全てが国宝指定と言う、前代未聞の快挙になったんじゃよ。分かったかの。ウィンク

 4)わしらが活躍した時代はいつ?

      

 鉄剣には「辛亥」の字が刻まれていた。これは十干十二支(じゅっかんじゅうにし)の表現なので、西暦に換算すると紀元471年に相当し、今から1529年前にこの鉄剣が制作されたことが判明した。このことも雄略天皇の実在を裏付ける根拠となったのじゃよ。

        

 こんな具合に、古代史や考古学は思い付きや適当な推定で物事を判断してるわけじゃなく、実証を繰り返して成立する学問であることを強調しておこう。つまり他にも人類学、生態学、言語学、神話学、文化人類学、植物学、解剖学、地質学、などの分野の協力を得て、最新学説が定説化されて行くんじゃ。分かったの。最後は少し肩に力が入ったが、さらに論考を続けよう。<続く>





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Last updated  2020.01.24 10:28:39
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