テーマ:写真俳句ブログ(37606)
カテゴリ:俳句
<自学自習>
3月の俳句教室も自信作を3本揃えて、手ぐすねひいて待っていた。そして来年度の俳句教室への受講申し込みも済ませた。自分では万全の準備をした。Kさんには、「これから毎月トリを取ると宣言し、それなりの自信もあった。講師の説く俳句の神髄が、何となく理解出来ていた。季語や切れ字の重要性、韻文、古語、「一句仕立て」でなく、「取り合わせ」、文学性などなどについての認識が深まった。 だが、好事魔多しとはこのことか。3月に入ったある日、俳句教室の会場である老人センターから電話が来た、何と例のコロナウイルス感染症騒動で3月の俳句教室は休止し、4月の開催も市当局からの通知次第で、開催開始日が決定するまでは不明とのこと。ガ~ンだ。 山鳩の番の聲や春障子 *つがい *こえ 障子は冬の季語だが、「春」を付ければ春に変わる。わが家の庭には良く山鳩が遊びに来る。それも夫婦の番2羽の姿をガラス窓越しに確認していた。だが障子越しでも、鳴き声でやって来たのが分かる。彼らは庭や畑で食べ物を探すために来る。障子越しに山鳩の気配を感じられるとは、何と贅沢な環境だろう。そして張り替えた障子のなんと清々しいことか。 だが憎たらしい野鳥がヒヨドリ。鳥へんに卑しいと書くヒヨドリは何でも食べる。特に冬の食べ物が乏しい期間は、畑のブロッコリーなどの葉っぱなどは彼らに食いちぎられて無残な姿になる。先日、花壇のチューリップの葉が変な形だと良く見たら、食われた痕が。やはりヒヨドリの仕業。コンチクショーと叫びたくなるほど悔しい。 3月の兼題は「初桜」(はつざくら)だった。その年に咲く最初の桜と言う意味で、春に先駆けて咲く桜。暖冬だった今年はかなり早めで、季語としても実感としても違和感はなかった。それをどう「取り合わせ」るかが問題と私は考え、次の一句を得た。 妻に似し老女をりけり初桜 認知症になった前妻が、あっちへフラフラ、こっちへフラフラして花見をするイメージだった。 二句目は 独り身の夜の長さや猫の恋 季語は猫の恋で「春」。独り者の男がなかなか寝付かれないでいるのに、今が恋の季節真っ最中のネコだけが夜もすがら一晩中、ニャーゴニャーゴとかまびすしいと言った滑稽な状況を詠んだ。 ほかに 声ばかりにて夜は更けぬ猫の恋 精も根も尽きたる頃や弥生尽(やよいじん) 年度末で草臥れ果てた男の姿が浮かび上がる。 筑波山 遠白き筑波嶺(つくばね)何処(いず)や春霞 遠白き(とおじろき)は遥かに雄大であると言う意味の古語で、上皇后さまが好んで和歌に用いる言葉と聞いたため、これを用いて句を詠んだ次第。 なお筑波嶺を詠んだ万葉の歌に次のものがある。 つくばねの嶺より落つる男女の川(みなのかわ)恋ぞ積りて淵となりぬる 筑波山は古来より年に一度だけ自由恋愛が許される日があったことで有名。上記の和歌は、その様を詠ったもの。男女の川は、江戸時代の有名な力士のしこ名にもなった。 俳句はそれなりに詠め、数もまあまあ作れて楽しい。だが清書してノートに書き写す暇がない。断捨離のためでも、ブログのせいでもある。何かを取れば何かが落ちこぼれ、すべてが上手く行くとは限らない。私の自由になる時間にも限度がある。(完) 明日からいよいよ「大連紀行」が始まる。準備は十分ではないが、既に何回分を予約した。満足出来る紀行文を書きたいのだが、構想を練る暇がない。だが、何でもありのスタイルも良いかもと思い直した。あまり構えず、その時の「ひらめき」に任せよう。とも角システムがスイスイ「動く」うちに、1枚でも多く写真を載せるのを優先させたい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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