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マックス爺のエッセイ風日記

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2020.04.25
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カテゴリ:歴史全般
<日露戦争の激戦地を訪ねて>

  

    大連市内旅順郊外の旧203高地(現在)

 大連、旅順ツアーの目玉の一つが「日露戦争」の激戦地だった通称「203高地」の探訪だった。地名の由来はこの山の標高が203mあったことからの命名で、ロシア軍は自軍の軍港である旅順港を死守するため、その背後を取り囲む山々に堅固な要塞を築いた。それは当時としては最先端の技術である、「コンクリート」を用いたもの。そのため日本軍の「榴弾砲」(りゅうだんほう)では破壊出来ず、肉弾戦で突撃するしか王法がなかった。203高地は日本軍の攻撃で山の形が変わり、標高が数m低くなった由。

               

 これが今も残っているロシア軍のトーチカ(要塞)。トンネルは200mほどもあり、ロシア軍はここに隠れ、近づく日本兵に窓から銃撃した。中がきれいだったので、ここを訪れる観光客の安全のため、新たに補強したのかも知れない。

  

 203高地を目がけて榴弾砲を撃つ日本軍。

        

 累々と横たわる日本兵の死体。写真は日露戦争当時のものだが、説明文は現代中国の簡体字による。(「水師営会見所」=後述に掲示されていたものを、私が撮影した)

  

 要塞に残る爆破の痕。銃撃をかいくぐって突撃した日本兵がトーチカに仕掛けた爆薬で入口を爆破し、そこから突入してロシア軍を破った。

     

 203高地中腹にある虎の彫刻(右)とそこまで私たちを乗せて送ったマイクロバス(左)。背後の山が203高地。

    

 203高地の頂上に立つ記念碑は、砲弾の薬莢(やっきょう)を収集して、日本側が建造した。

    

 203高地から見た旅順港。日露戦争当時、日本の海軍は真正面に見える狭い水路に廃船を沈めて閉鎖し、ロシア側の艦船を閉じ込めようとしたが、水深が深くて失敗した。ここから日本軍の榴砲弾はロシアの軍艦には届かず、港外の海上と背後の海岸から同時にロシア軍を攻めた。旅順」の名は、清の将軍が対岸の山東半島から船で遼東半島まで渡った時、「旅」を「順」調に終えたことを記念しての命名。旅順は現在大連市の一部となり、ビルが建ち並ぶ近代的な市街地が広がっている。

  
               

 203高地およびその周辺での戦いに勝った日本の乃木大将は、ロシア軍のステッセル将軍と旅順郊外水師営の農家で会見する。これが名高い「水師営の会見。

  

 馬(サラブレッド)の傍に立っているのがステッセル将軍。会見終了後、同将軍はこの愛馬を乃木大将に贈った、

     

 日露両軍の記念写真。乃木大将は武士道精神を以て、敗れたロシア軍にも軍刀の帯刀を許し、人数も6人ずつの同数とし、同じように椅子も与えた。また日本海海戦も合わせたロシア軍の捕虜7千名近くを、四国松山の捕虜収容所では手厚く遇し、ロシア兵は道後温泉にも入った由。

 だが第二次世界大戦で敗れた日本が降伏した後も、ソ連軍は南樺太や満州に侵攻して、殺戮と金品を奪い、大勢の兵士を連行してシベリア鉄道の敷設工事などに使役し、このため多数の旧兵士、と日本人が死んだ。満州の日本人が命からがら本土へと引き上げたのは終戦の1年後で、大連港からだった。旧ソ連で死んだ日本人の遺骨取り違いや残留孤児の問題など、戦争にまつわる悲劇は尽きない。<続く>





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Last updated  2020.04.25 09:26:24
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