テーマ:写真俳句ブログ(37599)
カテゴリ:俳句
<立夏を過ぎて>
柿若葉疫病の世なれども *はやりやまい 隠元の双葉出でけり聖五月 *せいごがつ 麗しき人去りゆきて夏立ちぬ *うるわし 芍薬の夢破りけり通り雨 不器用に生きて胡桃の花眺む *クルミ せせらぎに胡桃の花や一日過ぐ *ひとひ 往き往けど青葉繁れる陸奥の山 *むつ 老鶯の一山すべて独占す *ろうおう *いちざん 苧環の舞ひ閑まりて朝の径 *おだまき *みち 苧環やしんと静もる路地の家 山藤や駆けゆくわれの前後 *まえうしろ 巨星二つまたたく天も卯月かな *うづき <上溝桜 うわみずざくら> 石女に上溝桜ひそとして *うまずめ 酒蒸しにして喰ふ夜の鬼浅利 *さかむし <平山郁夫 仏教伝来図> 月明や仏教東漸絹の道 *げつめい 月清し砂漠越へゆく主従かな 月清し仏典絹の道を往く 月明や仏典駱駝の背に揺られ *ラクダ 月明や仏舎利駱駝と共に往く *ぶっしゃり=仏陀の遺骨 仏舎利や砂漠の上に月一つ 昨年の秋、私は 月明やあくまで皓き釈迦の骨 を提出した。高野山の塔頭の一つである普賢院で観た仏舎利の神々しさに感激した時のことを思い出しての句で、平山郁夫画伯の絵「仏教伝来図」も頭の中にあった。 だが講師は「あくまで」も「皓き」(しろき)も良くないと言って 月明や豆粒ほどの釈迦の骨 と直した。俳句には副詞も形容詞も使うべきではないと言うのが彼の持論。それは分かるし、きっとそうだのだろう。だが「豆粒」では仏舎利の清らかさも月明も生かせないと私は感じていた。 あの時の悔しがまだ残っている。つい最近も夜中に起きて上の幾つかの句を詠んだ。言葉に対する思いや、イメージは尽きない。そこに文学の原点があると私は思うのだ。もう夜も更けた。だが創作には完成がない。(予約機能を用いて1週間前に投稿し、その後も修正) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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