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マックス爺のエッセイ風日記

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2020.06.01
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カテゴリ:旅、温泉
<TV番組から思い出した旅>

  ランの仲間

 月末の週末。早朝に起きて自転車で某所へ。まだ5時前なので誰にも会わない。とある箇所をささっと見渡して、素早くタケノコを鎌で切る。細くて短くて貧弱な種類。それでも15本ほどをビニール袋にしまい、次の場所に移動。そこではまあまあのフキを15本ほど鎌で切り、そそくさと帰途に就く。20年前はもっと太くて長くて見事なのが採れたが、開発が進んで山菜はすっかり姿を消してしまった。

  月山富田城   

 先日TVの歴史番組を観ていて、「おや」と思った。月山富田(がっさんとだ)城と言う聞き慣れない山城の名前。だが待てよどこかで聞いたことあるぞ、その名前は。確か昨年山陰などへツアーした際、島根県安来市の足立美術館の少し手前で、ガイドさんが口にした名前だと気づいた。尼子氏の居城で、山全体が砦と城で蔽われ、難攻不落だったと言うが、その時は何の変哲もないただの丘にしか見えず、全く気にかけてなかったのだ。

  月山富田城とその城下町   

 ところが今回TVで知ったのだが、この山城は30ほどの砦と城が築かれ空堀や迷路などが施されていた由。また周囲には8つほど味方の山城があった由。石見銀山の銀を手中に収め、山陰全体を支配していた尼子氏。それを山陽地方の覇者、大内氏が攻撃したがとうとう落ちなかった。だが、大内氏の配下だった毛利元就が主家を乗っ取り、70歳を過ぎてから再び月山富田城を攻め立てた。

     毛利元就

 2度目の攻略で毛利元就は、敵将が寝返ったとの噂を立て、それで動揺した隙に三方から攻めてついに落城させた。その後城を修復すると共に、真向かいにもう一つの山城を築城して、尼子氏の武将山中鹿之助の攻撃を躱(かわ)した。こうして毛利氏は、山陰、山陽の諸国全てを支配する大大名へと成り上がり、三人の子をそれぞれ毛利、大内、小早川氏の後継者と定めて万全の体制を築いたのだった。だが、関ヶ原の戦いで西軍の大将となったことで、毛利は家康から周防と長門の2国に封じ込まれ、城下も萩に移すこととなった。

      北海道の縄文遺跡  

 何年か前に岩手、秋田、青森の遺跡を幾つか一人で訪ねる旅をした。その時に北海道と一緒になって縄文文化を世界遺産に登録する運動中であることを知った。縄文時代の重要な遺跡が東北に多いことは知っていたが、それが北海道にまで及んでいることは知らなかった。ただし、青森の三内丸山遺跡から発掘された鏃(やじり)の黒曜石が北海道産で、交流があることだけは知っていた。

  

 ところが最近観たTV番組で、北海道南部には東北の縄文遺跡と同様の住居跡、土器、土偶、漆(うるし)が使用されていたことを知った。つまり津軽海峡を行き来して、北部東北は北海道南部と全く同一の文化を保有していたのだ。北海道にはなかった栗も東北から持ち込まれ、住居の骨組みとなった栗材も、東北から運ばれたものだと言うことが、発掘の結果分かった由。

      
       <北海道南部の縄文時代の住居(左)とチーズケーキ(右)>

 北海道に「後縄文文化」や「オホーツク文化」が興ったこと。北大構内の住居跡や、北見に巨大な「モヨロ貝塚」があることも知っていたし、平取町のアイヌ博物館を観に行ったこともある。函館市内でランニング中、偶然和人の砦である志海苔館(しのりだて)を知ったのも、今は良い思い出だ。北海道と東北の縄文文化が世界遺産に登録されることを願っている。白老の新アイヌ博物館も観たいものだ。

    伊勢路

 TV番組で「伊勢古道」を観た。熊野古道の一部で「伊勢路」とも呼ばれる。内宮、外宮の神宮と熊野三山を結ぶ、信仰の道として昔から多くの人々が歩んで来た。馴染み深い熊野古道に対して、伊勢路の方はさほど有名ではないが、何か所もの峠道を越え、熊野灘の浜辺の集落へと降りる厳しいルート。だが、かつては重要な生活道として石を敷くなどして整備され、所々に石仏が祀られている。

         
             <伊勢路のルート(左)と山中の石橋(右)>

 私は2年前、ツアーで伊勢神宮、熊野三山、高野山を訪ねた。その際に、この古道とクロスする国道をバスで通った。山が海に迫るこの地は昔から交通不便の地だったことだろう。浜辺には秦の始皇帝の命で不老長寿の薬を探しに「徐福」がやって来たとの伝説も伝わっている。松阪のブロ友マッカーサーさんがかつてこの道を歩いて撮った写真をブログに載せられたのも、今は懐かしい思い出だ。

  

 またまたTV番組で長崎県の離島である対馬(上左)のトレッキングを観た。この島へは3年前にツアーで訪れたことがある。その時御岳(みたけ)と言う山にある展望台から、リアス式の浅茅(あそう)湾(上右)や白嶽(しらたけ下図)が見えた。対馬は国境の島で、いわば日本の最前線。昔から大陸や朝鮮半島との交通の中継地点であり、地理的な理由で何度も戦闘に巻き込まれて来た。

        金田城   

 その典型が古代の山城である金田城。これは「かねだじょう」ではなく、「こんたのき」と読む。「き」は砦(とりで)の意味であり、敵軍が攻めて来た際には険しい山上にあるこの城に逃げ込んだ。神功皇后が三韓征伐をした際はこの島にも立ち寄ったとされ、鶏が時を知らせたと言う雞知(けち)の地名が残っている。元寇、秀吉の朝鮮征伐などの他、朝鮮やロシア軍が上陸したこともある。

 

 対馬の聖地白嶽(しろたけ)は遥か彼方に白い山頂がちらりと見えただけだった。番組では軽々と頂上へ上ったが、断崖絶壁の痩せ尾根を歩くのは極めて危険。風が吹けばふらついて直ぐに落下するだろう。私には到底無理な注文。

      金田城

 倭と百済の連合軍が白村江の戦いで唐と新羅の連合軍に敗れた後、倭は対馬に金田城を築き防人を置いた。太宰府周辺には水城と山城を築き、防人を置いた。瀬戸内海沿岸の岡山や香川などにも山城を築き、都を近江に遷宮した。天智天皇は唐が本気で攻めて来ると考えたのだ。朝鮮通信使の世話など、江戸時代は何かと日朝友好の担い手として苦労した対馬藩。今、韓国人は対馬の土地を買い漁り、対馬に伝わる仏像を盗んだまま返そうともしない。相変わらず無礼な国。西郷隆盛が怒って「征韓論」を唱えたのが分かりそうな気がする。





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Last updated  2020.06.01 21:17:39
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