カテゴリ:考古学・日本古代史
~米作と権力者の出現 ムラからクニへ~
インディカ(長粒米=左)とジャポニカ(短粒米) かつて縄文時代に米作はないとされたが、いまでは陸稲の栽培が認められている。また水稲の朝鮮半島経由説も消えた。1973年揚子江下流の河姆渡遺跡からジャポニカ種の米が発掘され、我が国の種とDNAが一致することが判明。これで北部九州か山口周辺に大陸から直接渡ったと考えられたのだ。 吉野ケ里遺跡 私が小学生のころに習った弥生時代の遺跡の代表格が静岡の登呂遺跡。これは水田遺跡だった。ところが佐賀県の吉野ケ里遺跡の発見が弥生時代のイメージを大きく変えることになった。2重の環濠で囲まれた集落には、楼閣を思わせる高い建物が複数あったし、環濠に沿って丸太の柵が張り巡らされていた。水田による稲作が強大な権力者を誕生させ、ムラがやがてクニへと発展する基礎ともなった。 <小さな名札を手掛かりに=古代出雲歴史博物館の展示物から> とてもみすぼらしい出土品が常設展示にあった。撮影したのは全くの偶然。たまたま説明板を撮影していたことが役立った。出雲市青木遺跡からの出土で奈良~平安時代(8~9世紀)とあった。このブログを書くに際してネットで同遺跡を検索した。その結果古墳時代から江戸時代にかけての複合遺跡であることが分かった。古墳は出雲特有の四隅突出墓。道路工事中の発見のようだ。 改めて出土品を見直すと、円面硯(えんめんけん)、下駄、刀子などがある。円面硯は字を書くため、墨を擦るための道具。下駄は履物。刀子(とうす)は木を削るための道具。当時は紙が貴重なため、木簡(もっかん=木製の名札)に字を書いた。その字を間違えた際は木を削って、その上に書いた。今ならさしずめ「消しゴム」のような役目だ。 硯やベルトの金具が出土してるのを見ると郡衙(郡の建物)が置かれ役人が勤務したのだろう。出雲国府や出雲国分寺、国分尼寺は松江市付近にあるため、郡の建物ではないかと考えたのだ。土の表面は現代の物。下に行くに従って古い時代の遺跡となる。古墳時代から江戸時代までこの地に人が住んでいた。だが道路工事のため簡単な埋蔵文化財調査で終わってしまう。古墳も破壊されたはずだ。もっと掘り下げたら縄文時代の遺跡すら出る可能性があるのだが。 出雲市上塩冶築山古墳から出た遺物から復元した6世紀後半の大首長とのこと。王冠、装飾太刀、馬具などの華美さからヤマト王権から与えられたものだとのこと。西出雲地方で最も権威があった豪族のようだ。この古墳は個人の所有で、明治20年に所有者が石室を開けて中の遺物を取り出した由。幸いにも215点のほとんどが公的機関で保管され、国の重要文化財に指定。遺跡も国の史跡となった。 だが、あまりにも立派な騎馬像に私は驚いた。違和感を抱いたのは馬があまりにも大き過ぎるためだ。古代の馬は体高110cmから120cmしかないのだが、これじゃまるで競馬用のサラブレッド。きっと復元する際にそこまで考えが及ばなかったのだろう。私は日本馬の古来種を3種ほど知っていた。沖縄与那国島の与那国馬。長崎県対馬の対州(たいしゅう)馬。そして愛媛県今治市の野間(のま)馬。 小さな野間馬 私が住む仙台市の動物園には対州馬が飼われていて、実際に見た。与那国島へは行ったことがないが、沖縄には3年間勤務し名前だけは知っていた。愛媛県にも3年間勤務し、その野生馬の飼育牧場の傍を通り、名前を知っていた。わが国に大型馬がもたらされたのは平安末期。多分十三湊(青森)の安東氏が大陸と交易した結果だろう。奥州の馬産地としての評判が上がるのはそれ以降だ。<続く> お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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