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マックス爺のエッセイ風日記

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2020.10.20
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カテゴリ:歴史全般
~長安へ還る~

              

 再放送「海のシルクロード」最終回のサブタイトルが~長安に還る~だった。この前の「シルクロード」の取材班のスタート地点が隋や唐の都だった長安(現在の西安市)で、そこからシルクロードの幾つかのルート上の風物を紹介し、ローマがゴール、今回の「海のシルクロード」は逆にローマをスタート地点として、海路で中国に戻り、大運河経由で長安(西安)に還った由。最初の取材から40年以上も経過した。その壮大な企画に驚く。

 

 大慈恩寺境内に立つ「大雁(だいがん)塔」が画面に映った。西安のランドマークで、西域に向かう旅人は何度もこの塔を振り返りつつ長安に別れを告げたのだろう。玄奘三蔵(三蔵法師)が造営に関わったとされるこの塔は、既に700年代には傾いていた由。地下水の汲み上げでさらに傾きが増したが、その後の改善で少し戻ったそうだ。

           

 長安は前漢、北周、隋などの都。唐代、近隣の諸国は都城建設の手本とした。シルクロードの起点であり、西都、大興、西京などとも呼ばれた。宋代以降は大運河と黄河が交わる開封に首都の座を奪われ、政治経済の中心から外れた。現在の西安市は市区の人口が987万人。西安碑林などを有する歴史の都として観光客の人気が高い。なお開封の地下には7つの時代の城跡が層をなしている由。度重なる黄河の洪水の大量の土砂に埋まったのだ。恐るべし黄河。

    

 城門脇で発掘する作業者たち。発掘調査終了後、長安当時の城門を復元再建する予定とTVの解説。30年前の取材なので現在は見事な城門が見られるはずだ。

            

             画面に寺院と仏像の修復作業が映ったが、場所がどこかは不明。

  
          
   
          

 画面には中央アジアの人々や、シルクロードの石窟と仏像が映った。恐らくは以前の映像から抜粋したのだろう。

   

 「シルクロード」第1部(12集)は1980年(昭和55年)の放送。そして第2部(18集)は1983年(昭和58年)からの放送。そして今回再放送された「海のシルクロード」は1988年から2年かけて放送された。もう昭和の最後だ。かつてのテーマ曲、喜多郎のシンセサイザーが懐かしい。

           

 最初の取材からだと45年は経っているはず。一体そのうち何回番組を観たのか。中央アジアの男の精悍な顔や、パミール高原の峻険な山並みを思う。そして遥かに遠いわが家の歴史を思う。まだ幼かった子供たちが40歳を過ぎ、一番上は50に手が届くころ。しかし素晴らしい番組に出会えて良かった。まだ見ぬシルクロードの光景を、脳裏に思い浮かべることが出来るのだから。

  

 今年も始まった「正倉院展」。私もこれまで2度観た。奈良の正倉院こそ、シルクロードの本当のゴール地点かも知れない。中には既に現地では失われたものもあると聞く。遥かヨーロッパやアジアから、陸路や海路を渡った宝物が、大切に保管されて来た古都奈良。だが隣の大仏殿ですら、何度か焼けている。正倉院も一度出火したが、扉を壊して中に入り、何とか消火したようだ。

 多賀城南門復原図  

 最北の政庁。陸奥国府多賀城。現地では目下南門の復元工事が進んでいる。政庁付近の建物跡から、つい最近白磁の破片が発掘された。当時の役人が使用した物だが、多賀城が平安末期まで政庁として機能し証だ。奥州藤原氏三代の居館である「柳之御所」跡からは大量の青磁や白磁の破片が出土している。日本海を通じた交易ルートの存在を思う。そしてシルクロードが北の大地まで延びていたと信じたい。<続く>





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Last updated  2020.10.20 08:59:20
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