カテゴリ:歴史全般
<信仰・侵攻・祖父と孫>
<玄奘三蔵(三蔵法師)> 玄奘(602-664)は唐代の訳経僧。629年陸路でインドへ向かい、途中各地で巡礼や仏教研究に励む。645年657部の経典と仏像を携えて帰国。以後持ち帰った経典の翻訳に励み、それまでの過ちを正す。法相宗(ほっそうしゅう=薬師寺や興福寺の宗派)の開祖となる。インド往復の旅を「大唐西域記」に著す。三蔵法師は尊称。 これが彼が辿ったルート。インドやネパールでは仏教の聖地を巡った。高峻なパミール越えや摂氏50度を超える猛暑の火焔山などルートは厳しく、盗賊に遭ったりもした。シルクロードのオアシスには仏教を信奉する小さな王国が点在していた。著書は「西遊記」のモデルとされ、映画化もされた。釈迦が生まれた地を訪れ、真の仏教を学びたいとの一念が実現させた大旅行だった。 1) 2) 3) 1)は三蔵法師が建立に関わったと伝わる長安大慈恩寺の大雁塔。その傍に立つ石塔が2)。その最上段に刻まれた文字を拡大したのが3)である。ここには「大秦国景教流行中国碑」とある。「大秦国」とは当時の東ローマ帝国のこと。「景教」は「ネストリウス派キリスト教」のこと。それが唐に伝わったことを記念して建てた石碑と言う意味だ。 431年同派の教えは皇帝によって異教となされ、信者は止む無く隣のペルシャに逃れた。7世紀ごろにはそれが中央アジアを経由して中国に伝わり、長安に「大秦寺」と称するキリスト教寺院が建てられたようだ。石碑はそれを証明するもの。なおマニ教、ゾロアスター教(拝火教)、とこの景教が「唐代三異教」とされているそうだ。 <戦争と民族の移動> アレキサンダー大王 古代ギリシャ、マケドニア王国の若い王がヘラクレスの子孫と伝わるアレキサンダー(紀元前356-紀元前323)。哲学者アリストテレスを師として学び、20歳で王位継承後、アケメネス朝ペルシャに侵入して征服し、その10年後にはインドに到達、彼の地にヘレニズム文化を伝播した。帰路バビロニアで熱病により33歳で病死。 左はアレキサンダー大王の遠征経路。アフガニスタンにはギリシャ系住民がわずかながら暮らしている。恐らくは2300年前の遠征時、現地に残った兵士の子孫だろうとのこと。右はガンダーラ遺跡の石仏。容姿や衣装にはヘレニズムの影響が色濃く残る。まさに東西文化の融合の象徴。人の移動は文化や宗教にも大きな影響を与える何よりの証拠だろう。私は中学の教科書で学んだと思うのだが。 「ゲルマン民族の大移動」も懐かしい言葉だが、深い意味は知らなかった。先ず中央アジアの「フン族」遊牧民で「匈奴」との説がある。4世紀彼らが西に向かって攻め入ったのがこの大移動の始まりだった。原始ゲルマンには、デンマーク人、スェーデン人、ノルウェー人、アイスランド人、アングロサクソン人、オランダ人、そしてドイツ人の祖先が含まれる。 <戦うフン族の兵士> 彼らはフン族の侵入により、トコロテン式に移動を余儀なくされた。その結果ローマ帝国は東西に分割。一方民族移動の原因となったフン族だが、5世紀半ばにアッティラ王が王国を統一したものの、王の死後王国は瓦解した。 モンゴル族の最大版図(左)と元の皇帝フビライハン(右) 蒼き狼ことモンゴル族の英雄チンギスハン(成吉思汗ジンギスカン)は勇猛なモンゴル族の傍系として生まれたが、持ち前の実力をいかんなく発揮して、最後にはモンゴル族を率いるハン(汗=王)となった。モンゴルの草原から遥かに遠いヨーロッパに侵攻し、孫のフビライハンの時代には、最大の版図が左上にまで拡大。領土は当時の世界の4分の1、人口は世界の半分を占めたと言う。 チンギスハン(左)と発掘された彼の陵墓(右) 馬に乗って移動するモンゴルの兵は強い。気性も粗く、抵抗する者は皆殺しにし、敵の女を自由にした。そのため中央アジア各地の民族には、かなりの率でモンゴルの血が混じっているようだ。また大国ロシアは、今でもなおモンゴルを脅威と感じていると聞いた。きっと祖先たちが味わった恐怖の記憶が強く残っているのだろう。 季節外れのタカサゴユリ さて困った。今日で終わると思っていた「付録編」だが、思ったより文章が長くなり書けなかった分が少し残った。そんな訳で明日もまた雑談になるが、ご辛抱願いしたい。ではまたね。<続く> お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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