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マックス爺のエッセイ風日記

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2020.12.15
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~プロローグ 那覇の裏町で(1)~

               

 仙台空港11時発のピーチ機は定時に、那覇空港に着陸した。懐かしい瀬長島を眼下に見たのは久しぶり、空港は西側へ大きく拡張されていた。空港ビルで迎えてくれたたくさんのランの花たち。荷物を受け取り、そのままモノレールの駅へ。少し迷ったものの、「2日通用チケット」を1400円で購入。実はこれが大当たりで、3日目(まる24時間有効)に物凄く役立つことを、この時はまだ知らない。

  

 旭橋駅でモノレールを降り、3連泊するリゾートホテルへ。チェックインしてキーを受け取り、部屋に荷物を置くと、私は裏町を西へ向かった。ホテルの葉さんから晩飯に適した居酒屋の名を聞き、そこを探そうと思ったのだ。ところが居酒屋「赤とんぼ」がなかなか見つからない。でも私はすたすた北へと歩き続けた。すると左前方の空き地に「松ノ下」と書かれた木札を発見。

                         

 これにはビックリ。住所は辻(ちーじ)。「松の下」は那覇でも有数の料亭。名前を観た瞬間、私は一冊の本を思い出した。著者は上原栄子。中部の貧しい農村に生まれ、縁あって那覇の料亭に勤めた。彼女の仕事は女郎(じゅり)で、酒の相手をする仲居だ。だが琉球王朝時代から続く辻の料亭は格式が高い。女郎は教養を積み、芸事はおろか客の仕事の話から家庭の困りごとまで相談に乗る、重要な任務を担っていた。だから当時の料亭はとても大切な接待の場だった。

   

 特に乞われた女郎は、旦那を持つことがあった。それは旦那の奥様も公認の間柄で、新年の挨拶など旦那の自宅訪問すら許される存在で、むしろ奥様は夫の仕事の成功につながる女郎に感謝の念すら抱いていたと聞く。著者の上原栄子は辻でも飛び切りの容貌と頭脳と気立ての良さを持つ女郎として有名。太平洋戦争後に進駐して来た米軍将校たちとは、自ら学んだ英語で応対出来た才女だった。

            

 故国に妻がいる一人の将校が、人柄に惹かれて栄子と深い仲になる。他人には仲睦まじい夫婦のように見えたそうだ。だが歳月が流れ、任務を終えた彼が帰国する日が来る。それが女郎の厳しい定め。寂しさを堪え栄子はその後も辻で働いた。だが旦那を持つことは二度となかった由。彼女の実話が「辻の華」。

 それを原作として1956年に米国で映画化されたのが「八月十五日の茶屋」。確かアカデミー賞を受賞し日本でも大評判になったはず。主演は京マチ子。私は当時まだ12歳。映画を観た訳でもないのに、記憶が鮮明なのが不思議。その33年後に沖縄に転勤して原作を読み、64年後に料亭の跡地に立つのだから、不思議な縁以外の何物でもない。

    

 「じゅり馬」と言う言葉を思い出し、画像を探した。「辻じゅり馬祭り」は旧暦1月20日(二十日正月(現地語でハチカーソーガツ)に商売繁盛と五穀豊穣を祈願する祭り。各料亭から選ばれた女郎(じゅり)たちが華やかに着飾り、馬の頭を付けた飾り物をつけ(左)、「ユイユイ」(よいよい)と威勢よく声を上げながら道を練り歩いたのが「じゅり馬行列」(右)で、早春の那覇の風物詩。日記公開後に思い出し、急遽書き足したが、良い勉強になった。これもきっと何かの縁。ノートえんぴつ

    至聖廟正面入口

 次に向かったのが「久米至聖廟」。通称孔子廟。久米(現地語では「くみ」)は琉球王朝時代に中国人が住んだ地区。彼らは達者な語学力を武器に、琉球と諸外国との通詞(つうじ=通訳)として中国から派遣された。そのまま帰化し琉球に残った子孫がいわゆる「久米二十六姓」。彼らが故国を偲んで建てたのが孔子廟だ。

  至聖廟堂遠望   

 この日も地元の方が「久米二十六姓」の末裔と言う台湾人を案内しておられた。かつてこの土地を那覇市が無料で貸したことが裁判沙汰になった。特定の宗教を優遇するのは憲法違反との原告の訴えを那覇地裁が認め、それ以降は関係団体から幾ばくかの借地料を徴収することになった。なお「久米二十六姓」は今も残り、例えば「馬姓」、「蔡姓」など一族を束ねる門中(むんちゅう)の象徴として存続する。

    
       <関羽候>             <媽祖像>

 ここに祀られているのは孔子や孟子などの儒者。関羽(かんう)、劉備(りゅうび)など歴史上の英雄。そして媽祖(まそ)などの民間信仰。これは中国も台湾も同様で「何でもあり」状態の多神教。媽祖は福建省や広東省など中国沿岸部で信仰される海の女神で、航海の守り神。琉球の進貢船は福建省の福州市に入港するのが当時の約束事で、沖縄独特の亀甲墓(かめこうばか)は、福建省の墓制が伝わったもの。

            
                 <至聖堂内部>

 さて日清戦争の背景には、難破漂着した宮古島民の台湾の蛮族パイワン族による殺害事件がある。明治政府は清朝に厳重に抗議するが、清朝は「台湾は化外の民」(けがいのたみ=清国とは無関係の蛮族)と強弁。日清戦争で勝利した日本は、下関条約により台湾と南満州の割譲を受けた。実は琉球を3等分し、奄美以北を日本領、沖縄本島周辺を琉球領、宮古島以西を清国領とする案がそれ以前に存在したが、日本の勝利により雲散霧消。かように歴史は、その後の国や民族の運命を大きく左右する。<続く>





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Last updated  2020.12.15 09:36:36
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