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マックス爺のエッセイ風日記

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2020.12.18
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~大雨の中、浦添城を訪ねる~

   ゆいレール浦添前田駅    

 旅の2日目は朝から土砂降り。朝食後朝ドラを観終えると私はリュックを背負ってモノレールに乗った。浦添前田駅で下車。路線がくねくねして、さっぱり方角が分からない。それで駅員に浦添城への道を聞いた。写真は借り物なので晴天だが、実際は風もあって、横殴りの雨。2度目はパトカーのお巡りさんに尋ねた。だが、道が悪そうなので直進。3度目は地元の女子中生。実に丁寧に教えてくれた。

    浦添城城壁 

 初めてここへ来た30年前とはすっかり様子が違っている。迷いながら城への入口を探す。駐車場のとなりに「ようどれ館」が出来ている。きっと資料室だろうが後回しに。浦添とはどんな意味かと、初めて名前を聞いて考えた。かつては「浦襲い」と言った由。浦は港。では「襲い」は。ソウルは韓国語で都の意味らしい。首里(しゅり)も音が近い。奈良には「添上郡」がある。ソウル、シュリ、ソエ、オソイ。やはり「都」だろうと類推。結局「港のある王都」と私は解釈したのだが。

        浦添(伊祖)城城域図   

 かつて沖縄本島の各地に按司(あじ=領主)がいた。12世紀頃の話だ。恩納村以北を統一したのが北山王で居城は今帰仁城(なきじんぐすく)。豊見城以南の南部を統一したのが南山王で居城は南山城。中部は佐敷(さしき)を領地とした尚巴志(しょうはっし)が束ね、1429年に三山を統一して首里に第一尚氏王朝を樹立し、父を初代の王とした。浦添は首里移転前の古都で、良港牧港(まちなと)が、中国や東南アジア諸国を相手の貿易による富をもたらした。

    

              <琉球王朝時代の古瓦>

 これらの古瓦は浦添城、首里城、那覇市内の古寺跡から出土したもの。1273年英祖王(古図の伊祖城もその音を採った)の統治時代。高麗の瓦工が来島し、浦添城の瓦を焼成。その技術を学んだ島民がそれ以降、浦添城や首里城の瓦を焼いた由。14世紀半ばには日本から製瓦技法が伝わり、勝連城と首里崎山御嶽の屋根を葺いた。16世紀半ばには中国製陶工人が来島して国場村真玉橋に窯を築造、帰化後は製陶、製瓦に励んだ由。やはり朝鮮との関係を感じた私の勘は間違ってなかったようだ。ちょきぽっ

    今帰仁(なきじん)城下郎門

 沖縄の城(ぐすく)は日本の城とは本質的に異なる。ぐすくは本来墓や聖地であり、やがて砦(とりで)や城としての機能を持つ。その際も、城内に拝所(うがんじゅ)や御嶽(うたき)などの聖地を持つのが普通。祈りと共にあるのが沖縄の城の特徴。民俗学者で琉球大学教授だった仲松弥秋(なかまつやしゅう氏=故人)の説だ。氏は奄美から先島に到る広範な地域の城とその類型を精査し、学l説を得ている。

 さて吉凶や勝敗を占い、敵を呪うのが祝女(のろ)で、その頂点が王の血族の聞得大君(きこえおおぎみ)。古代の「祭政一致」が沖縄ではかなり後世まで残った。

     

    <浦添城の崩れた城壁>       <春分の日の朝日が入る位置と角度>

 第一琉球王朝の都である浦添と移転先の首里城から春分の日に太陽が見える位置関係が右上の図。琉球神話の始祖神「アマミキヨ」「シネリキヨ」が最初に上陸した久高島は沖縄最大の聖地で、1609年の島津藩侵攻までは王自ら島での神事に参加した。だが征服後は島への上陸が禁止され、対岸の斎場御嶽(せいふぁうたき)から聞得大君が王の代理として遥拝することだけが許されたのだ。神聖な久高島から上る太陽がギリギリ見えるラインが上の図。太陽は沖縄では「てだこ」と呼ばれ、信仰上重要な存在だった。

 だから神の島である久高島から上る太陽が城から見えるかどうかはとても重要。沖縄本島の中央部に連なる「脊梁山脈」、運玉森、崎山御殿、知念半島の自衛隊が駐留する山などが邪魔になり、春分の日に見えるかどうか微妙な位置。浦添城、首里城の立地はギリギリの線だったことを初めて知った。本当に見えたことを確認出来、まさに「奇跡」と思えた。その事実は両城内における神事にも影響したはずだ。

   

  <発掘調査後に整備された「浦添ようどれ」の復元図>

 浦添城北側(沖縄では北を「西」と呼ぶ。因みに東は「あがり」=朝日があがるため。南ははえ=南風。西は「いり」夕日が海に入るため。)の崖面に建造された第一琉球王朝の陵墓が「浦添ようどれ」。「ようどれ」は夕暮れの意味。日本語の「黄泉」(よみ)に雰囲気が似ている。沖縄の本来の葬制である風葬募(ふうそうぼ)を王の陵墓として整備したもので、戦災で崩壊した遺跡を発掘調査後に再整備した。城下にはや武士(さむれー)の屋敷跡や金属加工の作業場(鍛冶屋)跡があった由。

   

      <ようどれの3つの墓室(左)とその入口(右)>

  

        <ようどれの入口(左)と二番庭(にばんなー=右)>

 私が初めて訪れた30年前はとても寂しく、白装束の老婆が海に向かって手を合わせていたのが印象的。きっと「ニライカナイ」(海の彼方の極楽=内地の西方浄土に相当)に向かって祈っていたのだろう。聖地には「拝所」や御嶽があり、香炉が置かれて今も参詣が絶えない。嶺々の御嶽(うたき)は、神は高い山上に降臨すると言う、北方民族共通の神話と一致する。浦添城内でも巨大な窪地内に拝所(うがんじゅ)があるのを確認したが、残念ながらネットに写真が無かった。

   

   <ようどれ館(資料室=左)と展示してあった石棺の模型(右)>

 最後に寄った「ようどれ館」のボランティアの小母さんがとても親切だった。法政大学が関係資料を寄贈したと話されたので、それは同大に「沖縄学研究所」があり、沖縄出身の外間守善教授(1924-2012=伊波普猷の後継者)がおられたからだろうと教えた。ここで濡れた衣服を着替え、貴重な画像をたくさん観た。最終日に訪れた沖縄県立博物館常設展の臨時職員の対応とは真逆だった。ぽっ

  

    <伊波普猷夫妻>         <伊波普猷の墓所と顕彰碑>

 城内の一角に伊波普猷(いはふゆう1876-1947)の墓所がある。彼は那覇市出身の民俗学者で言語学者。「沖縄学の父」と呼ばれる泰斗。キリスト教徒の彼は人妻と不倫して上京。号の普猷(ふゆう)はそのことを恥じ、自分は沖縄では不要(発音は「ふゆう」)な人間とし、号とした。30年前は墓前にあった「ニービ石」が見当たらない。あれはとても沖縄らしくて良かったのだが。

          

<参考>とても不思議な形をしたニービ石。これは何年か前に私が那覇の奥武山の沖社付近で撮ってブログに載せたもので、ネット内にあった。「にーび」は鈍色(にびいろ=鉛色)の変化であることを今回初めて知った。砂岩の一種で高温、高圧で圧縮され、切断面は見事な鈍色だ。

     

 ようどれ(岩窟内の陵墓)内の3墓室の配置図。西室は図の一番右手。石棺(沖縄では特別な呼び方がある)は中国産の石で、精巧な彫刻が施されている。この聖地も大戦時米軍の攻撃を受け、レリーフが破損している。また盗掘された痕跡のある石棺を3日後に沖縄県立博物館で観た。歴史研究は本や資料だけでなく、現場に臨むことが重要。なぜなら何らかの示唆と発見が必ずあるからだ。<続く>





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Last updated  2020.12.19 09:35:37
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