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マックス爺のエッセイ風日記

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2020.12.22
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~首里城近辺の風景~

    円鑑池と天女橋

 首里城を出て当蔵(とうのくら)方面に向かう。アカギの林が生い茂る坂道を下って、先ずは円鑑池(えんがんいけ)へ。水源は首里城の森から染み出た地下水だろう。小さなお堂にはかつて経典を収納していたと聞いたが、こんな水辺では湿気で直ぐにカビが生えただろうに。橋の名は天女橋。池の水はさらに一段低い「龍潭」(りゅうたん)と流れ込む。

    円覚寺と放生橋   

 円鑑池の正面には王家の菩提寺、円覚寺の跡地がある。門は閉ざされたままだが、横の小径の奥から境内を眺めることが出来る。昔は格式ある立派な寺院だったのだろうが、今は小さな池とそれに架かる「放生(ほうじょう)橋」があるだけの寂れた風景。放生とは仏の功徳をいただく代わりに、魚などを水に放して自由にすること。それを「放生会」(ほうじょうえ)と言う。東南アジアでは今でもその風習がある。

    沖縄県立芸術大学

 沖縄県立芸大の講義棟の真向かいに、新しい建物が建っていた。首里城跡に琉球大学があった時代は、この辺には琉大の学生寮が建っていたそうだ。今では沖縄の染色、陶芸、伝統音楽、伝統舞踊、組踊などを学べる沖縄県立芸術大学のユニークな建物が建ち、全国から学生が集まって来る。昔の首里公民館はなくなり、こじゃれた建物の玄関先に戦前の写真を張り付けた陶板があった。

         

 これが当蔵(とうのくら)界隈の地図。かつては首里公民館や、古い県立博物館があった。ひょろ長い池が龍潭(りゅうたん)で王朝時代は舟を浮かべ、中国の使者を接待した、丸い池がさっきの円鑑池だ。この一帯には王の親戚筋の、「御殿」が集中していた。「ごてん」ではなく「うど(う)ん」と呼ばれていた(。 )内のうは小さくduと発音する。たまに池から戦時中の不発弾が出、そんな時大騒動だ。

   首里高校

 細い路地から守礼門のある広い通りに出ると、県立首里高校がある。ここは「ひめゆり部隊」を出した名門で、長女もここに編入し卒業した。その編入試験受験のため、赴任前に娘を連れて来たのももう遠い思い出になった。

    玉陵資料館    

 玉陵(たまうどうん)に行くと、入り口に見慣れない建物。ここも世界文化遺産なので、資料館を作ったようだ。受付でモノレールのチケットを見せると2割ほど安くなった。何気なく私が琉大の図書館に勤務していたことを告げると、「Iさんを知ってますか」と思わぬ質問。「知ってるよ奥さんのM子さんは部下だったもの」。受付嬢はI氏と同窓で、書道部だった由。こんな場所でかつての部下の知人と出会うとは世の中は狭い。久しぶりに懐かしい名を聞いた。

  

 陵墓に向かう道にガジュマルの並木がある。初めてここを訪れた30年前。この木の不気味さに驚ろかされた。枝からは何本もの長く伸びた根(気根=きこんと言い、酸素を吸う)。それが地面に達すると地中の栄養分を吸って太くなり、幹に絡みつく。支柱根(しちゅうこん=上の写真にも見える)と呼ばれ、こうなると台風にも負けない。樹も環境に合わせて大きく姿を変えるのだ。

             

       玉陵を仕切る塀。ガジュマル並木はこの道路の左側に植えられている。

  

 夕暮れの陵墓。左手の岩山にももう一つ墓室があり、合計で3つの墓室に第二琉球王朝の王、王妃、王子らが葬られた。本質的には「浦添ようどれ」同様の風葬募で、王族の陵墓に相応しく加工してある。大戦時には被害を受け、墓室に穴が開いた写真を見たことがある。陵墓前庭に敷かれているのは砕かれた珊瑚。これは内地の「玉砂利」に相当し、身分の高い家にしか許されない。

           

 王家の陵墓を守る屋根のシーサーは一般のものとは大きく異なり、威厳に満ちている。わが家にもこのレプリカがあるが、それでもかなり重く一度落としたことがあったほど。

   

 陵墓の前庭東側の石碑。内容はある王の悲劇。母を亡くした王子がいた。聡明な王子にちょっとした油断が生じた。ある日若い継母が王子に頼んだ。「王子様助けてください。蜂が着物の中に入ったので捕まえてください」と。純真な王子は疑うこともなく継母の胸に手を入れた。すると継母は大声で叫んだ。「誰か来て。王子が私の胸に手を入れました」と。    

 それは自分が産んだ王子を次の王にするための計略。こうして王位継承権を失った王子は己の未熟さを恥じ、この陵墓に入るのを拒み、「浦添ようどれ」に葬るよう書き残した由。これは実話だが、王子の何代か後の子孫が再び王統を継いだそうだ。
                
        

 また「志魯・布里の乱」(しろふり)では王位継承を巡って叔父と甥が争った結果、首里城を炎上させた。いつの世も権力を巡る熾烈な戦いがあるものだ。歴史とは人間の愚かさの証明なのかも知れない。

    那覇市国際通り

 国際通りを経由し、終点のバスターミナルでバスを降りホテルへ戻った。風呂を沸かして体を温め、その間に靴と傘を乾かし、濡れた衣類を始末し、着替えてサッパリしたところでひと眠り。目が覚めてから「居酒屋赤とんぼ」へ行った。S店長はお休みだったが、いつものメニューを頼んで泡盛を安く飲み、ネパール人の青年と色んな話をして帰った。長い長い雨の一日だった。<続く>





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Last updated  2020.12.22 08:00:15
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