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マックス爺のエッセイ風日記

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2021.03.05
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カテゴリ:文化論
~アイヌとの交流~

     北海道開拓記念館

 いわゆる「アイヌ新法」が制定されてから、言葉などに一種の「制約」がかけられたのではないだろうか。実際に体験はしてないが私にはなぜかそんな風に思えて仕方ないのだ。例えば「開拓」。私たちの年代で北海道と言えばすぐに思い出すのが「開拓」だし、「屯田兵」。それらは明治新政府が目指した「富国強兵」を支えるものでもあった。だが「開拓記念館」はどうやら「北海道博物館」になったようだ。

 アイヌに数の概念が乏しいことは以前に述べた。例えば江戸時代に和人がアイヌと取引する時の数え方だが、先ず「はじめ」から始まり1,2,3,と数えて真ん中に「真ん中」が入り、10まで数えると最後に「おわり」が入った由。つまり10は10ではなく13になるが、それでもアイヌは了承したと聞く。明治新政府は、アイヌが居住した便利な土地を奪って三菱や三井に払い下げ、アイヌは僻地に追い込まれたと言う。

       

 さて、アイヌに混じって立っている外国人は、イギリス人のジョン・バチェラー。彼は英国国教(プロテスタント)の牧師で、夫人と共に早期に北海道に渡りアイヌにキリスト教を布教した。風習はもとより、言葉も日本語とは大きく異なるために彼の苦労は並大抵のものではなかったと思われる。

     

 そのために彼が苦労して作ったのが「アイヌ語、日本語、英語の対訳辞書」(左)だった。彼はアイヌのための教育施設まで作った。それが幌内に建てた「愛隣学校」だ。そんな努力がアイヌにも認められ中にはキリスト教へ改宗する者も出た。アイヌにとって最初の異人は日本人だが、日本人以外の外国人がジョン・バチェラーで、彼がアイヌ研究に果たした役割は極めて大きなものがある。

       

 日本人のアイヌ語研究の第一人者が金田一京助(左)だろう。彼は東大でアイヌ語研究を志し何度も北海道を訪れたが、十分に聞き取ることは出来なかった。そこでアイヌの少女知里幸恵を東京に招いて、彼女から正確なアイヌ語を学んだ。彼女は幼少時から幾編ものユーカラを聴いて育ち、いち早く学校で日本語の教育も受けたバイリンガルで、金田一にとってはまたとない良い助手となったのだ。

 こうして金田一の研究は一挙に進んだが、北海道から出て来た幸恵にとって大都会での慣れない暮らしによるストレスは大変なものがあったのだろう。語学の天才はわずか18歳と言う短い生涯を終えたのだ。この後、金田一は幸恵の弟真志保を東大に入学させてアイヌ語の研究を続けるが、真志保は東大卒業後北海道へ帰還し、後に北海道大学の教授となる。その後は彼らの叔母である金成マツが暗唱していたユーカラを学ぶ。

  

 アイヌ初の国会議員となった萱野茂の生涯は、アイヌ文化の振興に捧げたと言っても過言ではないだろう。自らもアイヌ博物館を自宅敷地内に建て、大阪の国立民族学博物館の建設に寄与し、アイヌ新法制定の原動力となり、金成マツがアルファベットで書き残した膨大なユーカラを日本語に翻訳した。また自らもアイヌに伝わる昔話を何十冊もの著書にまとめた。

            

 それらの研究や長年のアイヌ文化振興活動に対して、総合研究大学院大学から博士号が綬与された。私は国立民族学博物館勤務当時、同氏が館内にあるチセ(アイヌの小屋」で執り行うカムイノミ(神行事)を身近で体験し、夫妻が持参したアイヌ料理に舌鼓を打ったことがあった。また北海道平取町にある自宅と私立博物館を訪問して直接お話を伺ったこともあった。それはアイヌ語の地名の特徴に関するもので、今となってはとても貴重な体験だったと思っている。<続く>





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Last updated  2021.03.05 00:00:09
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