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マックス爺のエッセイ風日記

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2021.05.10
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カテゴリ:文化論

~死と再生~

  

 菊の御紋は天皇家の紋章である。それがテーマと何の関係あるの。と聞かれるだろう。菊の原産地は中国。日本へは遣唐使がもたらしたと言われる。中国で菊は割と重要な役目を果たした。「重陽の節句」つまり旧暦の9月9日は菊の花を飾って祝った由。薫り高い菊は日本人にも好まれ、朝廷に献上されてついには天皇家の紋章となった。宮家の家紋は全て菊をアレンジしたものとなっている。

           

 ところが菊を愛したのは中国や日本だけではなかった。これは古代エジプトのファラオの黄金の椅子だが、何と背もたれのデザインはまさに菊の御紋ではないか。すると菊が中国からエジプトへ伝えられたのだろうか。それは不明だが、実はこの「菊」は太陽を表したものなのだ。しかし古代エジプトの王室とアジアの東外れにある日本の皇室で、同じデザインを用いていたとは。天皇の祖先である天照大神は太陽神で、国旗は日の丸。すると菊の紋章を太陽と見なすことも可能なのかも知れない。

    古代エジプト「太陽の船」

 それならなぜ古代エジプトでは太陽を聖なるものと考えたのか。それは太陽が不滅であるからだ。夕方になると太陽は西に沈む。だが翌日の朝には東の空から再び姿を現す。古代エジプトの民は太陽を復活と再生のシンボルとして崇め、その太陽を舟が運んでいると考えた。上の絵は太陽神を舟で運んでいる姿。
それは絵だけでなく、巨大な船が発掘されたことで実在が証明されている。

     発掘された「太陽の船」    

 エジプト考古学の専門家である吉村作治早大名誉教授は、かつて巨大ピラミッド付近の地下には巨大な空間があることを地磁気センサーで探知し、巨大な船が収められてる可能性があると「世界ふしぎ発見!」で語っていた。その後、エジプト考古庁が発掘して吉村説が真実だったことが証明された。彼は他にもう1艘分の空間があると言っていたが、古代エジプト人の信仰や知識、技術の高さが理解出来よう。

    秋田県大湯環状列石

 これは秋田県鹿角市にある大湯環状列石遺跡。縄文時代のストーンサークルだ。巨大な石の輪が2か所あり、その中に写真のような石組が幾つかある。この遺跡には住居はなく、祭祀専用の空間だった。石組をどかして掘ると人骨が出て来たことから墓だったことが分かった。同時に、この石組は太陽の位置を正確に捉える日時計で、毎年春分の日には、同じ位置から太陽が現れることが確認された由。墓は死者の埋葬施設だが、「日時計」はその復活と再生を願っての施設。二重の意味があったのだ。

   第二琉球王朝尚育王肖像    

 さて、沖縄では太陽を「てぃーだ」「てだこ」と呼ぶ。第二琉球王朝の最初の王都であった浦添城と、次に移動した首里城からは、東方の久高島から昇る太陽を遥拝したことが知られている。久高島は琉球の始祖神であるアマミキヨとシネリキヨが上陸した聖地で、城(ぐすく)には必ず祭事を執り行う御嶽(うたき)があった。まさに卑弥呼や、日本の原始神道を彷彿とさせる祭政一致の姿だ。死と再生は人類共通の願いであり、それゆえ縄文、古代エジプト、琉球王朝と形を変えつつも太陽信仰が出現したのだろう。

    

    (1)            (2)            (3)

 さて最後に古代の三美神を紹介しよう。(1)はトルコから出土した「地母神」。豊かな胸と腹部から妊婦であることが分かる。(2)は長野県茅野市の棚畑遺跡から出土した「縄文のビーナス」。どうやら縄文時代中期の土偶のようで、国宝に指定されている。腹部から、妊婦だと分かる。(3)は(2)と同じ茅野市棚畑遺跡出土の「仮面の女神」で国宝指定。妊婦なのか「出べそ」状態だ。同一の遺跡から出土した土偶が複数点国宝に指定されるのは恐らく初めてのはず。

    亀甲墓

 これは「亀甲墓」と呼ばれ、沖縄のお墓の形態の一つ。名前の由来は形が亀の甲羅に似ていることからだが、これは琉球王朝時代に進貢していた中国福建省の墓制を倣ったもので、「母胎」との説もある。つまり死後は母の胎内に還り、いつの日か再生する願いがあったのだろうと。かつては火葬せず遺体は墓の中の「しるひらし」(汁減らし)に安置し、数年後に取り出して洗骨した。洗骨は女性の仕事だった。

 この墓も風葬募の一種。温度と湿度の高い沖縄では最も自然な葬制だったのだろう。一族はみな同じ墓に葬られた。いわゆる「門中墓」(むんちゅうばか)で、今でも一門の結束は強い。墓の入口を「産道」と見なすことも出来るが、遺体を入れた後は漆喰で固め部外者の侵入を防いだ。墓は集落のすぐ傍に在り、死者は子孫の繁栄を見守っていた。そのため家も墓も風水によって場所を決めたのだ。


             唐草文    

 「唐草模様」と呼ばれ、日本の風呂敷のデザインの主流はこれだった。かつては中国由来の忍冬(スイカズラ)の蔓を模したとされたが、今では空想の植物をデザイン化したパルメット紋と呼ばれる。古代ギリシャやエジプトの神殿の石柱などにも彫られた。まさに「文化は伝播する」見本。「東京凡太」が背中にこの風呂敷を被っていたが、そんなことを知る人はもういないだろうなあ。クール

  
            <横山大観 「生々流転」の一部>

 横山大観の名作に因む「名前」を借りたシリーズも最終の10回目。我ながら頑張って難しいテーマに挑んだと思う。「生と性」についてはまあまあ書けたが、「死と詩」のうち「詩」はさっぱりだった。次はいずれ「詩」をテーマに書きたいものだ。なお、この「生々流転」を観たのは島根県の足立美術館だった。ツアーで行った際にたまたま「院展100周年記念展」だったかをやっていたのだ。

 ただし展示点数が驚くほど充実し、日本画にあまり興味のない私は大急ぎで見回り、庭園や他の美術品に心を動かされたのだった。偶然だが上の絵を見ると、足立美術館の有名な庭園に雰囲気がとても良く似ていることに気づいた。長い間のご愛読、どうもありがとうございました。心から御礼申し上げ、このシリーズの結びといたします。亭主謹白。<完>






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Last updated  2021.05.10 05:23:15
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