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マックス爺のエッセイ風日記

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2021.05.18
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~日本人と稲が来た道~

  

 字が薄くて良く見えないが、人間の祖先がアフリカで出現した後地球上にどう拡散したかが上の図。薄い矢印は現生人種の「ホモサピエンス」。すると濃い矢印は「原人」かも知れない。ジャワ原人や、北京原人が良く知れらている。やはり日本列島へのルートが幾つかある。そして日本列島に現生人類が来た年代は「4万年前」のようだ。

         
            デニソワ人       ネアンデルタール人

 左はデニソア人で右はネアンデルタール人。彼らは現生人類が出現する前に滅び、主にヨーロッパで暮らして後者が前者を絶滅したと考えられて来た。ところが両者には婚姻関係が認められ、その後ユーラシア大陸を移動したと考えられるようになった。そしてわが日本人の遺伝子の中にも、彼らの遺伝子がごくわずかだが残っている由。彼らと婚姻関係があった遠い先祖が、日本列島へやって来たのだろう。

 さて、中央アジアの民族の伝承には、我々の祖先のうち魚が好きな者は東に向かって日本人となり、肉が好きな者はここに留まってカザックになったと言うのがある。さてデニソワ人の中にはヨーロッパからスンダランドに来た者もいたみたいで、ミクロネシアなどの人々に金髪の人がいるのは、デニソワ人の遺伝子が残るためとも言われるようだ。

  

 現代人のDNAに関する模式図。太い実線であればあるほど近い関係であることがわかる。それによれば本土日本人と中国人。琉球人とアイヌの遺伝的な関係性は少ないと考えられているようだ。

          

 これは遺骨(先祖)のDNAによる関連性。左上の東北の縄文人は、東北の弥生人とDNA的には離れている。つまり婚姻関係が乏しく混血は少ない。現代日本人は渡来系弥生人とDNAの特徴が似ているが、現代韓国人や現代中国人とは似ていない。

  

 少し見難いが、図を見てみよう。長江(揚子江)中流域で起こったイネが西の「熱帯半月板)に向かっている。中国山東半島周辺で起こった稲は「温帯ジャポニカ」(中国の河姆渡遺跡で発見され、種の起源とされた)は、直接日本列島にむかっている。一部は朝鮮半島や済州島に近づき「カーブ」している。かつて日本の米は朝鮮半島経由でもたらされたとされたが、今では否定されむしろ日本から半島に向かったとの説もある。

 一番下に南西諸島経由での本列島に向かう矢印がある。柳田国男の「海上の道論」に近いと考えられ、熱帯ジャポニカと注記されている。どうも私たちが現在食べている品種とは異なるみたいだ。

  

 左上は水稲の2種。左側のインディカ種は長粒米(ちょうりゅうまい)で、インドやタイで多く作られている。その右のジャポニカ種は粒が短い短粒米だが国内で生産しているのは温帯性のもの。右の茶碗よそってあるのは古代米。「古代米」には「赤米」、「黒米」、「青米」などがあるがいずれも商品名であり、正確な品種ではない。以上は全てさらさらした食感の粳米(うるちまい)で、もちもちした食感の餅米とは異なる品種だ。

     
     傾斜地での陸稲栽培(タイ)       粟(アワ)      稗(ヒエ)

 さて左上はタイの陸稲。陸稲とは水田ではなく畑で育てる稲のこと。水田耕作にはそれなりの環境が必要だ。ところが山地では平らな場所が乏しく水利も不便。そこで斜面の畑に種を蒔き、天然水の雨に頼る。もしも痩せた土地なら、焼き畑で林を燃やし灰を肥料代わりにする。日本の稲作は長らく弥生時代からとされて来たが、今では縄文時代から行われたとする説が出ている。当然焼き畑が考えられ、陸稲のほかにアワやヒエの栽培もあっただろう。東北では栗や漆、エゴマ、苧麻(カラムシ、ちょま=衣服の原料)の栽培例も見られる。

   土井が浜遺跡人の復元図

 さて、稲作が縄文時代に遡ると共に、押し出される形で弥生時代の開始が千年から1500年ほど遡ると考えられるようようになった。戦後からさほど経っていない昭和28年(1953年)九州大学医学部の金関教授が、山口県の土井が浜遺跡から弥生人骨を発掘した。発掘調査はその後も続き、全部で300体ほど発見された。遺体は全て頭を西に向けていたと聞く。

 きっと彼らは籾を携えて西から来たのだろう。響灘さらに玄界灘の彼方には彼らが出発した中国の山東半島がある。籾を持った移住者たちは日本の稲作文化隆盛に貢献した。彼らは死に際して故郷を向いて葬るよう懇願したのではないのか。さて、後来の弥生人は先住民である縄文人とどう「折り合い」をつけたのだろう。

              稲を刈る神官     

 西日本から東北の縄文土器が発見されるのは、東北の縄文人がわざわざ稲作を教わりに来た証拠との説も聞いたが、事実はどうなのだろう。稲作地帯の前進と異民族との結婚は、日本神話の「国譲り」や「神武東征」を私は思い浮かべるのだが。<続く>





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Last updated  2021.05.18 19:17:04
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