マックス爺のエッセイ風日記
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~移動と定住と交流について~ <旧石器時代人> <縄文人> <弥生人> 日本人の祖先となった人たちの顏だ。旧石器時代の人で頭蓋骨が見つかっているのは沖縄県だけだから、これはその骨から復元したのだろう。それは縄文人も弥生人も一緒。縄文人は旧石器時代人の風貌ととても良く似ている。 これに対して弥生人は顔が長くて鼻は低く、瞼は一重で体毛が薄くて明らかに先の二人とは異なる。日本列島へは一番遅く中国大陸や朝鮮半島経由でやって来た人種。これらの特徴は北方系であることの証明。眉毛やまつ毛などが凍傷にかからないよう薄く、鼻は取り込んだ冷たい空気を温めてから肺に送るため、副鼻腔が広がり顔が扁平になる。彫りの深い顔立ちの前二者とは明らかに異なる。 縄文人と弥生人は徐々に婚姻関係を強めて行く。稲作が盛んだった九州北部から西日本一帯の混血が進んだのに対して、縁辺部の北日本、九州南部、南西諸島では両者の混血が遅れたために、縄文人の特徴を残した人が多かったのだろう。より一層混血が進んだ現代日本人のDNAは、両者の特徴を未だに保有している。 北谷伊礼原遺跡出土土器 沖縄県北谷町(ちゃたんちょう)にある伊礼原(いれいばる)遺跡は縄文早期(約7千年前)から縄文晩期までの複合遺跡で、国の史跡に指定されている。なお、沖縄の歴史は日本の時代区分と呼び名が異なり、「縄文時代」に当たる「貝塚時代が」、日本の平安時代辺りまで続いている。 左は熊本の曽畑式(そばたしき)土器で、右は鹿児島の市来式(いちぎしき)土器で、いずれも沖縄県内の遺跡から出土した縄文土器。熊本や鹿児島の人が沖縄に住んだのではなく、移動した人が持参したものだろう。なお、宮古島以西の先島、八重山地方からは弥生式土器が出土している。そこまで九州人が移動した理由がきっとあるに違いない。 左からイモ貝、ゴホウラ貝。これらは南西諸島の海で採れる貝。そして一番右はそららの貝で作った釧(くしろ=腕輪)。日本では縄文時代から古墳時代辺りまでこの貝の腕輪が装飾品として珍重された。そのため後に「貝の道」と呼ばれる洋上のルートが存在した。当然何(十、百)人もの人が丸木舟を「漕ぎ継いで」南方の島々に土器を運び、その代わりに南島の貝を入手したと考えられる。そして苦労して得た南海の貝は、他の地方へとさらに分布したはずだ。黒曜石の採取もそうだが、驚くべき航海術と忍耐力だ。 さて上の縄文土器が発見された場所が朝鮮半島と聞いたら、皆さんはどう思うだろう。縄文時代から半島と日本列島との交流があったと考える人もいるだろう。だが私はそうは考えなかった。南島の貝のように交換するものがあれば別だが、その時代に朝鮮半島から日本に持ち帰ったと考えられる物はない。 さて前に書いたように、隠岐の島産の黒曜石がロシアのウラジオストック周辺から発掘されていることを考え合わせると、多分当時の縄文人は彼の地に定住していたように思える。理由は朝鮮史の中で約5千年間ほど空白の期間があると聞く。縄文人が朝鮮半島の各地にいたことを歴史書に記すことが出来なかったのだろう。また百済国の域内からは「前方後円墳」が10基以上発見されているが、韓国人はそれを不都合と考え、重機で幾つかの墓の形を変えてしまった。日本起源のものが朝鮮半島にあっては不都合なのだろう。歴史の捏造は、彼らのもっとも得意分野だ。 しかしなぜ縄文人は朝鮮半島や極東ロシア周辺にまで行ったのか。1)当時は国境がなかったから。2)食料を求めて。でも食料は十分あったはず。日本は四方を海に囲まれ、魚介の入手は容易。それに栗やトチの実、山野の動物も少なくはなかったし、数種の穀物などの栽培も既に行われていて、朝鮮半島へ渡る理由にはならなかったと思われるのだ。 ほかに考えられる理由は、鬼界カルデラ、姶良カルデラの巨大爆発や、阿蘇山、雲仙岳、桜島、霧島山などの相次ぐ噴火で絶滅の危険を感じた九州の縄文人が朝鮮半島に逃げたと考えるのはどうか。そんなことを言う人はいないし学説もないが、ど素人の空想と笑わば笑え。しかし、「明石原人」や「葛生原人」はその後、一体どうなったのか。マックス爺の苦悩と妄想はさらに続くのであった。<続く>
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