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マックス爺のエッセイ風日記

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2021.05.20
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~神話から歴史へ~

       神功皇后「三韓統合図」

 第14代仲哀天皇の后である神功(じんぐう)皇后は熊襲征伐が先だとする夫を残して身重の身で朝鮮半島に渡り、三韓を征伐した後帰国して後の第15代天皇となる応神を産んだとされる伝説上の女性。対馬には彼女が朝鮮の前に対馬に立ち寄ったとする伝説が残されている。

    岩戸山古墳の石人・石馬   

 継体天皇21年(527年)、朝鮮半島南部へ進撃しようとしていたヤマト王権軍を阻止しようとして筑紫君磐井が反乱を起こした。いわゆる「磐井の乱」だが、物部氏によって成敗される。彼が埋葬されたとされる岩戸山古墳は長径170mで北部九州最大の前方後円墳。墓には独特の石人や石馬が供えられた。一説によれば磐井は新羅と結託し、王権軍に対抗したと言われる。

    古代朝鮮半島の政治体制

 天智天皇2年(663年)。新羅(しらぎ赤色)は高句麗(こうくり茶色)を倒すため唐(グレー)と結託して、まず百済(くだら青色)を滅ぼしにかかった。当時任那(みまな薄緑)に拠点を置いていた日本(倭=薄紫)は百済の援軍要請に応えて征夷大将軍の阿倍比羅夫を援軍として送ったが、百済の白江河口で唐・新羅連合軍と戦いわずか2日間で敗戦。任那も新羅に奪われ、日本は半島の拠点を失った。

                    

 その経緯について刻した好太王碑文を唐は高句麗(現在の北朝鮮)に建てた。碑文には「倭」の文字が十数か所刻されているが、後に朝鮮人によって字を消されるが、拓本が中国に残ってたため今も判読が可能だ。勝利した新羅は朝鮮半島を統一し、滅んだ高句麗の故地には渤海(ぼっかい)国が興り、わが国と親交を結んだ。
 
    大宰府政庁(復元)

 唐の日本への襲来を怖れた天智天皇は都を難波から近江へ遷都し、大宰府を強化、水城(みずき)を構築して防備を固め、逃げ城としての大野城を背後に設け、九州北部に全国から防人(さきもり)を派遣した。また瀬戸内海から難波に到る地域に逃げ城を設け、対馬には金田城(こんたのき)を置いた。その後、航路が不安定などの理由で、遣唐使が中止された。日本が初めて迎えた国際状況緊迫化時代だった。

         日本書紀   

 史書に南島のことが出て来るのは奈良時代に編纂された「日本書紀」が初見だが、多彌(たね=種子島)、夜久(やく=屋久島)、海見、阿麻美、奄美(あまみ=奄美大島)、貴駕(きか=喜界島)阿児奈波(あじなは=沖縄本島)、久美(くみ=久米島)、信覚(しかく=石垣島)などの名称が散見できる。朝貢と言うよりは舟が難破して漂着し、都に連行されたのではないか。ただし、種子島には、同島と屋久島を領地とする「国府」が一時期置かれたことがある。九州本土に近かったため、早めに律令体制に組み込まれたのだろう。また中国の史書である「隋書」に琉球の名も見え始める。

    喜界島城久遺跡

 面白いのが喜界島。奄美諸島でもっとも東北部に在り、薩摩、大隅に近い。そのせいか、どうも比較的早い時期から大宰府の下部組織として機能していた形跡が窺われる。後に「倭寇」が九州北部を荒らし回った際、南島の南蛮人を取り締まるよう喜界島にも通達が来たことが史書に載っているようだ。

   
    <夜光貝>     <螺鈿細工の柱>   右矢印   <平泉金色堂内部>

 さて、縄文時代から古墳時代まで日本列島の住民に珍重された、南方のイモガイ、ゴホウラ貝、スイジガイ(水字貝)はその後装飾の趣向が変わったのか、他の素材が出現したためか、需要がなくなった。それに代わって内地に運ばれたのが一番左側の夜光貝だ。これは螺鈿(中央)の素材となり、匙(さじ)や酒盃に加工された。螺鈿細工で有名なのが奥州藤原氏が建てた金色堂内部のもので、豪華絢爛そのもの。

 こうしてやがて沖縄の島々まで次第に日本の貿易体制に組み込まれて行く。他にも言語や宗教、独自の歴史と文化交流について述べたいのだが、今回はこれまでにしたい。ご愛読に感謝しつつ。<続く>






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Last updated  2021.05.20 00:00:11
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