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マックス爺のエッセイ風日記

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2021.05.21
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~より遠くへ 造船技術と航海技術の向上~

   丸木舟

 このシリーズで何度も使わせてもらった丸木舟。きっと最初に作られたのは「スンダランド」付近だったのだろう。丸木舟用の木を伐り倒すための磨製石斧や、切った木を刳り抜き人が載る場所を作るための「丸ノミ型が南方で起こり、フィリピンや台湾を通じて南西諸島、九州、そして関東からも出土したことで石器と人が来たルートが分かる。縄文人たちの勇気ある行動が、今日の日本人を育んだと言っても良く、丸木舟は1万5千年以上の歴史を持つはずだ。

               

 つい数年前、日本の研究者たちが台湾東岸の花蓮市付近から日本最西端の与那国島(よなぐにじま)までを木舟を漕ぎ渡る実験をした。漕ぎ手は5名でうち1名は女性。台湾沖の黒潮に流され、2日間かかって無事与那国に到着した。今回は伴船が随行したが、縄文時代は頼るのは自分たちだけだった。

     男鹿半島で今も使われている現役の丸木舟

 もう一つ私が丸木舟で思い出すのが、秋田県男鹿市の博物館(なまはげ館)で見た丸木舟。素材は秋田杉の大木で、先端は角ばってとても頑丈な造りだった。今も現役の丸木舟は冬の日本海の荒磯でも作業出来るよう頑丈な造りなのだ。とても良い物が見られたと思っている。

       舟形埴輪   

 上は古墳時代の古墳から見つかる「舟形埴輪」。それまでの丸木舟とは異なり、「波切用」の舳先があり、波が入らない高さがあり、片側に6個の櫂(かい)を漕ぐ場所が設けられている。左右12名の漕ぎ手がおり、これに見張り役などを入れれば15名程度が乗り組んでいたのだろう。外洋航海にも耐え、恐らくこの形の船で、朝鮮半島に渡り唐・新羅の連合軍と戦ったと思われる。

    遣唐使船

 複数の帆を有し、風のない時は漕ぎ手が漕いだようだ。出発点は難波の住吉宮の傍にあった住之江。航路は幾通りかあり、博多から朝鮮半島経由で黄海を突っ切るコースが一般的で、宗像大社の沖津宮(沖ノ島)などで航海の無事を祈った。だが新羅や唐との関係が悪くなると、五島列島を経由するルートや奄美諸島を経由するルートも採られた。だが南方ルートは台風に遭遇して難破することが多かった。

         開元通宝    

 開元通宝は621年に唐で鋳造された銅貨。奄美や沖縄で比較的まとまって発見されるのは、遣唐使が持ち帰ったことに拠るようだ。これを倣ってわが国が鋳造したのが「和銅開宝」または「和銅開珍」と言われるが、わが国最古の鋳貨は「富本銭」(ふほんせん)。十数次に及ぶ遣唐使、遣隋使も律令制度が整ったわが国には不要、航海も危険としてやがて廃止された。私は長崎県福江市三井楽の「遣唐使館」を訪れたことがある。

    日宋(にっそう)貿易船

 平安時代末期から北宋との貿易が始まる。これを差配したのは大宰府だが、貿易港は博多で、日本海側の良港として敦賀港があった。平清盛は大宰府の次官に任じられたが現地には赴かず、博多港の隆盛を見て大輪田泊(神戸外港)を築造し、宋船を博多ではなく大輪田に直航させて巨利を得ようとした。福原への遷都も企んだが、それが実現する前に源氏に敗北した。

             宋銭   

 鎌倉幕府が自ら貿易することはなく、ほとんどを商人に任せた。このため室町時代以降も、北宋、南宋との貿易はますます盛んで、博多からは坊津(鹿児島)を経由し、南島との交易ルートが開かれた。また琉球王朝が成立して中国との朝貢貿易を開始すると、その恩恵を得ようと南島ルートがさらに南下し、その結果17世紀初頭の島津藩による琉球王朝への侵攻へとつながる。

    坊津古図

 坊津(ぼうのつ)は東シナ海に面する薩摩(鹿児島)の良港。その地の利ゆえに南島貿易の中継地となり、中国の高僧が渡来して地名となり、密貿易や、倭寇の基地としても潤い、後世ポルトガル人が布教のために渡来する。薩摩藩の重要港となるなど、最先端の文化をいち早く摂取し、大いに栄えた。

     倭寇図

 中国の沿岸を倭寇が襲撃している。海上では相手の船に綱をかけて引き寄せ、乗り込もうとしてるのだろうか。右手の海岸では上陸した倭寇が地元民と戦っている。激しい倭寇の略奪は、中国や朝鮮などの諸国にとっては恐怖であり、厄介な存在だったことだろう。このため、わが国に倭寇の取り締まりを要請し、南島の喜界島へもその通達が来たのだろう。

        

 上は倭寇が遠征した地域。倭寇は中国が賊に対して呼んだ名称で、正常に貿易出来る際は貿易した。ただし、相手が貿易を拒んだ場合は襲って略奪した。朝鮮や中国の貧しい民が食うに困って「倭寇」を名乗り、自国の沿岸民から略奪することもあったようだ。また明が海禁(鎖国)政策を採ると、貿易が出来なくなった倭寇は狂暴化して行く。

 そのような意味で、前記と後期とでは倭寇の行動が大きく変容する。倭寇とは別に公貿易を行う商人も存在し、さらに琉球王朝の貿易ルートとも重なっていたため、倭寇の実態は一層不鮮明なものだった。

             倭寇のイメージ   

 倭寇の基地と称するものが九州一円に数多くある。五島列島は朝鮮半島や中国大陸に向かうには好都合だった。沖縄本島東海岸にも倭寇の基地と伝わる地区があり、日本風の言葉や氏名が多いのはそのせいとする説がある。また第二琉球王朝の始祖となった尚円(しょうえん=金丸)の父親は倭寇だったとか、宮古島には倭寇の基地があったとの説が存在する。

   ヤンバル船(マーラン船)

 琉球の近海用の船が上のヤンバル(山原)船。マーランは中国風の呼び名だろう。この船で沖縄本島北部地方から材木や薪を那覇に運んでいた。また沖縄には源氏の頭領が王の先祖になったとか、平家の落ち武者が流れ着いたとかの伝説が多く、竹富島の赤崎(平家の旗は赤)集落には「自分たちは平家の末」と書かれていた。きっと今でも祖先を誇りに思っているのだと思われる。

        琉球王朝の進貢船    

 中国の冊封体制下にあった琉球王朝は、定期的に中国へ進貢船を送り、中国からは冊封使船がやって来た。中国にとって貴重な「硫黄」や夜光貝の螺鈿(らでん)細工、日本の刀や蒔絵、朝鮮の南画などは琉球がもたらした。資源の乏しい琉球にとって他国から得た品も貴重な貿易品で、いわゆるバーター貿易だったのだ。

      首里城守礼門

 こうして最盛期には遠くはシャム(タイ)バタビア(インドネシア)まで出かけた。ただし船は中国が建造してくれ、通訳も世界情勢に通じた中国人が乗り込んだ。琉球王朝栄光の日々。薩摩は貿易の巨利に目を付け、17世紀初頭琉球を侵略。武器の無い琉球は鉄砲を持つ島津にわずか3日間で占領されて服従し、かつて奪った奄美諸島を島津に返還する。この体制が明治後期の「琉球処分」まで続き、中国(明及び清)は琉球が中国と島津に両属していたことを知らないまま。それが中国の誤解に繋がった。<続く>





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Last updated  2021.05.21 10:06:47
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