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マックス爺のエッセイ風日記

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2021.06.12
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カテゴリ:歴史全般
~秦の始皇帝陵墓と兵馬俑~

      

 昨日はドラマ「コウラン伝」~始皇帝の母~を中心にして書いたが、今日は主に考古学的な話をしようと思う。秦を滅亡させた始皇帝は西安の北東30kmほどに築かれた陵墓に葬られている。築造は皇帝生存中の紀元前246年から40年近くかけて行われ紀元前208年に完成した。高さ76mのピラミッド型の土塁であるが、風雨の浸食で頂上部が丸く変形している。

 歴史書「史記」によれば始皇帝の遺骸安置所周辺には水銀の川と海が作られたとあるが、信用されていなかった。ところが1981年の発掘調査時に、その周辺から水銀の蒸発が確認され、史記の記述が正しかったことが判明した。

   

 左図の緑色ン部分が陵墓で、長方形に区切られたのが墓域。右の写真のように陵墓の周辺は農地となっている。1974年自分の果樹園内で井戸を掘っていた農民が、鍬を振るうと鍬先に堅いものが当たった。掘り出してみるとそれは人間の首。ただし陶製のものだった。驚いた農民は慌てて村の委員会に届け、知らせを聞いて駆け付けた専門家による発掘調査が始まった。それがあの有名な「兵馬俑」(へいばよう)の発見に繋がった。始皇帝陵と兵馬俑は世界文化遺産に指定されている。

         埋まった状態の兵士

    騎馬と戦車

 戦車は100台あまり、陶馬は600体あったとのこと。

   
        

 武士俑は成人男子の等身大で製作され、8千体近くある。全員が戦闘服を装備し、東に向かって起立している。兵馬俑は3か所あるが、施された彩色が損なわれるのを怖れて、発掘調査を中止している箇所もある由。なぜこれだけ大量の「俑」が作れたかと言うと、人体を部位ごとに分け、武器なども別々に作って後で合体した。つまり「分業」だったのだ。以下に分業の状況を示したい。

  

 1)粘土を足で踏んだり、杵で突いて成分を均等にした。2)部位ごとの「型」に粘土を産める。

   

 3)足は足の型に入れて固定する。2)複雑な顔の部分は前と後ろに分けて型を作り、後に接合する。

   

 3)、4)体の部位のサイズが合うかどうか確かめる。

   

 5)1体分を窯に入れて焼き上げる。焼き上がると幾分縮小する。 6)それに下地の彩色を施す。

    

 7)下地を塗った上から最終的な色彩を施す。 8)完成形。

    
   

 素焼きの兵士たちの表情は1体ごとに違っていて、まるで生きているようですね。なお今回掲載した兵馬俑の写真は全て「ナショナルジオグラフィック日本版」から借用させていただきました。心から感謝申し上げ、注記します。

          

 最後に現在の中国の領土と、秦朝時代に始皇帝が統一した領土(濃い部分)の地図です。昔も今も異民族を征服し、同じ漢民族と戦って領土を広げて行ったこと分かります。唐の時代になるとシルクロードを通じて、さらに東西の文化が交流し、人も物も、文化や思想も広がって行きました。その最終地が東大寺の正倉院かも知れませんね。ではまた。バイバイぽっ<完>





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Last updated  2021.06.12 07:33:34
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