マックス爺のエッセイ風日記
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~俳句は自分で創るもの~ 教室に入って席に座った時、句友が私にそっと言った。「先月先生が褒めた句があったでしょ」と。もちろん私も良く覚えていた。決して見かけない情景を詠んでいたのと、季語との組み合わせが何とも不自然だったからだ。それが講師が褒めたその「フレーズ」がネットで検索したら出て来たと言う。そうか季語以外は「パクリ」だったのか。まさかそんなことをする人がいたとはねえ。 ところがである。私も似たような経験があった。何と「プレバト」で詠まれた俳句を提出した仲間がいたのだ。私はそのことを指摘した。他の句を参考にすることは良くある。だが、季語はA氏のから、中七と下五は別の人の作品から採って繋ぎ合わせただけとは驚いた。第一他人が良く観る俳句番組からそっくり「いただく」神経が良く分からない。そんなことをしても進歩はない。文学とは苦労して創るものだ。 ★ 紫陽花や縁切寺の築地塀 *ついじべい ★は提出句 7月の兼題は「紫陽花や」。それと「詠み合わせ」(全く異なる風景の中七以下の句を詠むことが宿題だったが、講師の指示を守れた人は少なかった。「紫陽花や」で始まっても、その後も紫陽花に関わる情景を詠んだ人が大部分。それだと「一句仕立て」と言う技法になる。私は鎌倉の古寺を連想して詠んだのだが、一応「詠み合わせ」にはなっている。講師の評価も悪くなかった。 紫陽花やすまじきものは老ひの恋 自分としては思い入れのある作品だったが、提出はしなかった。講師の評を聞きたい気持ちもあったが。 恋しさや紫陽花の彩薄れゆく やうやくにけふも暮れけり七変化 *ななへんげ=紫陽花の異称 ノウゼンカズラ 裏道や凌霄花音もなく落つる *のうぜん=ノウゼンカズラの短略形 井戸端に凌霄花落つる景色かな ノウゼンカズラ(凌霄花)は夏の季語。今頃の時期に鮮やかな色で咲いている。咲き終えると、その鮮やかな花が道端などに落ちている風景を良く目にする。 ドクダミ 十薬や旧き書物を出して読む 十薬や窓辺の読書黄昏れて ドクダミは夏の季語。十薬(じゅうやく)はドクダミの別名。ドクダミは漢方薬でもあり、昔は葉を患部に当てて、腫物の毒を吸い出した。そんなイメージもあって別名の「十薬」を使用した。わが家の庭もこの時期はドクダミの花盛り。根は深さ50cmにも達する厄介な雑草だ。八重咲に改良した園芸種もあるようだ。一種独特の匂いがする雑草。 ツバナ 野を往けば茅花流しの仄かなり *ゆけ *つばなながし *ほのか 野の径の茅花流しも黄昏れて *みち *たそがれ 茅花は「つばな」とも「ちばな」とも言われる雑草。「茅花流し」は梅雨時のじっとりとした風に茅花の穂が一斉になびく様子で夏の季語。わが家の周辺でも見かけるのは、元々が山野だった証拠だろう。 ホトトギス ★ 時鳥声は南部か伊達領か *ほととぎす 不如帰声は南部で塒は伊達 *ほととぎす *とや=ねぐら 不如帰世は疫病に揺らぐ時 疫病に揺らぐこの世や不如帰 疫病に眠れぬ夜の不如帰 時鳥声はいずこの梢から ホトトギス(時鳥、杜鵑、不如帰、霍公鳥、子規)は渡り鳥で深い森林に棲む。夏の季語で鳴き声に特徴がある。「テッペンカケタカ」とかが有名だが、他にも「擬音」が多い。ウグイスなど他の野鳥の巣に自分の卵を産み付けて「托卵」する性質を有する。体格の良いホトトギスの雛は、先に生まれた本来の巣の幼鳥を尻で巣の外に落として、自分たちだけが、「仮の親」から餌をもらう不届きな特徴を有する。 私は距離100kmのウルトラマラソン「いわて銀河」(6月開催)の75km地点付近の森で、良く鳴き声を聞いた。わが家でも夜中に鳴き声を聞くことがある。近くに営林署の森があるからだろう。提出した句とその次の句は自分でもふざけ過ぎかと思っていたが、講師には「あまり力まない方が良い」と諭された。それはそうで自分で自覚してたら良いのである。 クチナシ ★ 梔子の花や娘は嫁ぎゆく *くちなし 梔子の花や命のありがたき 不思議な話だが梔子は秋の季語なのに、「梔子の花」は夏の季語なのである。おそらく「梔子」は「実」を指すのかも知れない。クチナシの実は食品を黄色く染める素材として古来親しんで来たことからかもと想像している。提出した句は「クチナシの花」と「嫁ぎゆく娘」との、無関係なものを一緒に詠んでいる。これが「取り合わせ」の妙。 ノリウツギ 糊空木木下闇より出づる時 *ノリウツギ *こしたやみ 青葉闇犬連れし人通りけり *あおばやみ ノリウツギは紫陽花の仲間。木下闇(こしたやみ)も青葉闇も同義で、「深い森の中の暗さ」の意味。共に夏の季語。俳句は陰暦の世界なので、季節は現実よりもかなり早い。特に地球温暖化で季節感がずれた今日ではなおさらだ。そこに俳句の世界と現実との大きなギャップがある。さらに都会に住めば、自然との一体感も乏しくなり、句を詠むには厳しい環境と言えようか。かと言って「プレバト」のように何でもありの俗物的な題材は詠みたくはないとも思う。 オニドコロ 俳句は十七音の最も短い文学だが、その短さの中に無限の広がりを持つ。言って見れば「余韻の文学」なのだ。全部言い切らなくても良い世界。これぞ日本文学の極地かも知れない。どうもお粗末さま。知ったかぶりしてゴメン。
詩心の奪還へ 2022.04.17 コメント(4)
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