マックス爺のエッセイ風日記
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<種田山頭火の巻> 種田山頭火の名前は知っていた。自由律俳句を追求したことも、破天荒な人生を送ったことも、彼の作品もいくつか諳(そら)んじてもいた。たまたま先日ネットで彼のことを調べ、彼の作品を十句ほど読んで、私の記憶が曖昧だったことを知った。思った以上のインパクトだった。そして画像と組み合わせて彼の俳句を紹介したら面白いと考えた。ひょっとしたら、3回ほどのシリーズになる予感もする。 へうへうとして水を味ふ *ひょうひょう *あじわう まっすぐな道でさみしい どうしようもない私が歩いている 鈴をふりお四国の土になるべく 生死の中の雪ふりしきる また一枚脱ぎ捨てる旅から旅 霧島は霧にかくれて赤とんぼ うしろすがたのしぐれてゆくか 音はしぐれか 鉄鉢の中にも霰 *てっぱち *あられ 分け入っても分け入っても青い山 おちついて死ねそうな草萌ゆる 種田山頭火(1882-1940) 種田山頭火<たねださんとうか>は明治15年山口県の資産家の長男として生まれた。父の放蕩が原因で資産のほとんどを失い生母が自殺。後に弟も自殺する。結婚後は放浪を繰り返し、自由律俳句の荻原井泉水(おぎわらせいせんすい)に師事。熊本で寺男となり俳句を詠みながら、旅を繰り返す。自由律(五七五)の定型を取らないばかりでなく、季語や季節感を伴わない自由奔放な作風。酒が好きで体を壊し、旅先の松山で脳溢血のため昭和15年死亡。享年58歳。 私はたまたま松山勤務の経験があり、職場から自宅へ帰る際に寄った寺の中で、偶然彼の墓を見つけた。その時は俳句への興味も、彼がどんな句を詠んだのかも知らなかった。彼のことを知ったのは早坂暁(はやさかあきら)原作のテレビドラマ「花へんろ」ではなかったか。早坂暁は松山市の生まれ。 さて、正岡子規、夏目漱石、高浜虚子など松山に因む文学者は多く、市内のいたるところに「俳句ポスト」が設置されている。ある夜ふらりと入った居酒屋で、突然店の女将に俳句を一句詠めと言われた時には狼狽(うろた)えた。振り返れば私は案外俳句とも松山とも縁があったのかも知れない。松山市は昭和20年代の父の夜逃げし先で、小学生の時から句碑を眺めていたのだから。 春や昔十五万石の城下哉 はるやむかしじゅうごまんごくのじょうかかな 正岡子規の句で、句碑は松山城下の東堀端にある。市電(イヨテツ)が通る市役所のすぐ傍だ。
詩心の奪還へ 2022.04.17 コメント(4)
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