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マックス爺のエッセイ風日記

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2021.12.02
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~沖縄の離島と聖地(その2)~

 

 これは沖縄本島の西にある久米島の上江城(うえぐすく)です。小さな島にしてはかなり大きくて立派な城です。

                    

 久米島はかつて楽天イーグルスがキャンプをしていた島として有名でした。これは上江城の頂上に立つ私。眼下に島の集落が見えます。私がこの島を訪ねたのは「久米島マラソン」(フル)を走るためで、70歳で走ったこのマラソンが私にとっては最後のレースになりました。レース前日タクシーで島の観光地巡りをやったのです。この島には幾つか気になる場所がありましたので。

  

 これは具志川城です。カーブした城壁がなかなか見事でした。ここは下から眺めただけで終わりました。

         

 これも久米島の伊敷索(ちなは)城の石垣です。久米島を統一したいなは按司(あじ)は沖縄本島からやって来たみたいで、長男に与えたのが上江城。次男に与えたのが具志川城です。三男にも城を与えたようですが勢力争いに敗れて沖縄本島に逃げ、糸満市の具志川城主になったと伝えられています。

  

 これは重要文化財に指定された「上江洲(うえづ)家住宅」です。上江洲家は具志川城主の末裔の家柄と伝えられています。

         

 上江洲家住宅の石塀で、とても見事です。久米島の按司は中国との交易もしてましたが、沖縄が統一されて琉球王朝が誕生すると、王朝に仕えます。久高島同様、久米島の水夫は船の操縦が巧みだったため、中国、朝鮮、日本、東南アジアなどへ向かう貿易船の乗組員となったようです。

   

 久米島の祝女(のろ)の君南風(きみはえ上右=現地語でちんべー)は経験あらたかな神女でした。彼女を祀る君南風御殿(左上)が今も信仰の対象として残っています。八重山地方の石垣島で反乱が起きた時、君南風は敵を呪詛するため、宮古島の武将仲宗根豊見親(なかそねとよみうや)と共に船に乗り込んで八重山に向かい、見事反乱を治めたと伝えられています。

      

 これは宮古島の武将仲宗根豊見親の墓で、沖縄本島の墓とは全く形態が異なります。それでも風葬墓であることは確か。石垣島の反乱を鎮めた豊見親は「八重山頭職」に任じられますが、それは一時的なことでした。正面に墓室への入口が見えます。その左にある池にはエビが数匹泳いでいました。

 豊見親の本名は目黒盛と言ったようです。これも沖縄にはない姓で、倭寇の末裔と私は感じたものです。宮古島にも倭寇の基地があったと言われ、縄文時代や弥生時代の古い土器も発掘されています。

 

 これは宮古島平良港の近くにある漲水御嶽(はりみずうたき)の中で、祈る信者の姿です。このように離島では今でも古来の信仰を守っています。

            

 上は宮古島の大和井(ヤマトガー)と言う名の井戸です。雨は直ぐに石灰岩に吸い込まれてしまいます。そのため石段を下りた深い井戸が必要で、水を得られる場所は聖地です。名前が示す通り、この井戸は当時琉球を支配していた薩摩藩の武士か、首里の役人しか使えない重要な場所でした。島の人々が使ったのはその付近の「ウシガー」でした。そこは島の人が水を飲み、牛や馬を洗う場所。それだけ差別されていたのです。

 

 これは「人頭税石」と呼ばれるもので、平良港の近くにありました。高さは148cm。子供はこの石と同じくらいまで背が伸びると一人前と見なされ、税金を支払ったのです。かなり過酷だったと聞きます。宮古島ではなかなか作物が獲れず、カラムシと言う植物の繊維で織った「宮古上布」を税金として琉球に納めていたそうです。宮古島へは仕事と100kmマラソンで2度行きましたが、私は島の歴史を知るのに夢中でした。だから今でもこうして、沖縄の話が書けるのです。





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Last updated  2021.12.02 11:05:39
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